百年の夢

解剖タルト

第1話

 夢を見た。何も無いところをただひたすら歩いて、歩いて、歩き続けていた。靴を履いていなかった。足裏を見たら土とホコリで汚れていて、長い距離をひたすらに歩いてきたことがわかったが、それまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていたので、いつから歩いているのか、どこへ向かおうとしているのかまるで分からなかった。とりあえず歩いていけば何か思い出すだろうと歩いてみたものの、頭の中が霧のようにぼんやりとしていて、自分というものの存在と意味が、雨でアスファルトにできた小さな水たまりのように次第に蒸発していくような気がして、歩いている意味も、足裏から感じる存在も、ひどく惨めなものに思えて、それならいっそ立ち止まってみようかと思い、足を止めた。そしたら身体の芯から曖昧でそれでいて明瞭な不安が押し寄せてきて思わず身震いした。私の髄は不安でできている、そう感じた。歩いていたのはこの不安のためだったのかと思い、また歩くことにした。

 何かを探していた。周りを見回しても白い空間ばかりで何も無い、それなのに何かを探していた。怯えてもいた。このまま歩き続けていて良いのかと漠然とした不安に駆られ、「なんだ歩いていても不安なのか」と思うと、今度は自分というものの価値を疑うようになっていた。歩き続けなければいけないのは罪に対する罰なのか、私は何か悪いことをしたのか。覚えていないのだから「自分という存在が悪い」という帰結に至る他ない。自分が悪い、自分には何も無い、価値がない、誰も私を見ていない。嫌になる。自分が嫌になって歩くのも嫌になったから走ってみた。何も考えず、周りにとらわれず、手を大きく振り、脚のばねと地面からの跳ね返りを感じ取り、呼吸を荒らげてただひたすらに走り続けた。遠く遠くまで走り続けた。何も無いのだからと目をつぶり走ってみたら足がもつれて転んでしまった。全身が痛み、膝から血が滲んでいてヒリヒリしたが、ふぅと息を吹きかけて血を乾かし、立ち上がってまた走り出した。地面を蹴る、地面が応える。足裏が擦れ、皮が剥がれ、血が出て固まり、足裏が厚くなる。地面を蹴る、地面を蹴る、地面を蹴る……。何分、何時間、何日、いや、何年走っただろうか。走って、跳んだ、私は跳んで、そして風になった。眠る木々に生命を吹き込む風になり、熱く焦げたアスファルトを撫でる風になり、焼いた秋刀魚の香りを届ける風になり、雪の精霊とともに山々や街を駆け抜ける風になった。その風はどこへゆくのか。風の行方を私は知らない、だから私は風になるのをやめた。しばらく立ち止まり、呼吸を整えてまた歩き出した。

 なぜ歩くのか、なぜ歩かないと不安なのか、歩いていても不安になるのはなぜか、それはこの空間に何も無いからなのだと考えてみた。この空間に何かを置いてみよう、何が良いかと足元を見たら、そこに石ころが転がっていた。アスファルトの上に転がっているような、小さくて黒く硬く、ザラザラとしている石だった。はじめての「物」だったのでそれをつまみ取って右ポケットにしまうことにした。右ポケットの石の感触を確かめながらまた歩く。すると右ポケットの石がカイロのようにほのかにあたたかくなってきて、私の知らない特別な石なのか、色が変わっていたりするのだろうかと石を取り出してみたら、それはひとつの種子になっていた。どんぐりのような種、表面にはツヤがあり、先端は尖っていて硬い。底はザラザラとしていて石の面影を感じた。どこかに植えてみようかと思ったが、まだそのときではないと感じた。周りを見回した。誰もいなかった。孤独だった。この種のあたたかさを誰かに教えたくなったので植えるのはやめて手に持つことにした。

 さて誰に教えようか、誰に教えるつもりだったのか。持続するあたたかさの途切れることのない瞬時の連続によって、言い換えれば、度重なるあたたかさの発見によって、記憶は脱兎のごとく脳を通過し、光の速さで銀河系を駆け巡り、またここに戻ってくる。私が追い求めるその人はいま銀河の果てにいる。あぁそうか、私はその誰かに追いつくために歩いていたのだとその時ようやく気がついた。

 そしたら目の前が柔らかい光に包まれて、気づいたら手に持っていたはずの種子が私を優しい木漏れ日で照らしていた。木の根元に座り、幹にもたれかかって少し休憩をした。ここであの人を待とうと思った。依然として木以外には何も無かったが、私にとってはもうそんなことどうでもよかった。木の根が土から水を吸い上げ、幹を通り、枝、そして葉のすみずみまで水が運ばれるのを背中から感じ取った。目を閉じる。木漏れ日がゆらぐ。この木はいずれ実をつけるだろう。その最初の実がぽとりと地面に落ち、私がそれを拾う。そのとき、私はあの人に逢える。

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