第9話 先輩たちの背中

第9話 先輩たちの背中


梅雨の気配が近づき、どこか湿った空気が社内を包む中、美咲は社内の「営業成績ボード」を見上げていた。


上位には、先輩たちの名前がずらりと並ぶ。トップはもちろん、大橋課長。成約件数、契約金額、すべてが桁違いだった。


「田島、美咲、今月まだゼロだよな?」


振り返ると、軽口を叩くのは同じ課の先輩、佐々木翔太。明るく人懐こいが、営業では曲者として知られている。


「焦るなよ。俺だって最初の3ヶ月は地獄だった。」


「え、そうなんですか?」


「うん。初契約の時なんて、嬉しさより“もう無理しなくていい”って思ったもん。営業って、数字より精神力勝負だから。」


彼の言葉は意外にも優しくて、美咲の心に少しずつ染み込んだ。



昼休み、美咲は資料室で、大橋課長と鉢合わせた。


「あの……課長って、最初からトップだったんですか?」


大橋は一瞬キョトンとし、それから鼻で笑った。

「最初?俺、入社して半年は“帰ってくるな”って上司に言われ続けたよ。」


「えっ、でも……」


「今の数字なんて、ただの“積み重ね”だ。毎日10件回って、1件話を聞いてもらえればラッキー。そう思ってやってたら、いつの間にか慣れた。」


そして、大橋は一言だけつけ加えた。


「不動産ってのは、人の“決断”に立ち会う仕事だ。お前がその人の背中を押せるかどうか。それだけだよ。」



その日の夜、美咲は1件のキャンセル連絡を受けた。自分で作り自分で撒いたチラシを見てマンションを内見に来たお客様が、他社で決めてしまったという。


電話を切ったあと、心がスーッと冷えていくのを感じた。

チラシも、資料も、時間も……全部、無駄だったような気がした。


だが。


机に置いていた1枚の名刺に、ふと目が止まった。

斉藤真理子さん——あの空き家を託してくれた最初の依頼者。


あの日、自分はちゃんと「誰かの背中を押せた」はずだった。


負けた日も、誰かの心に残る仕事をした。それだけは、忘れたくなかった。



帰り道、佐々木が小さなコーヒーを差し出してくれた。


「悔しい顔してたからさ。次は決めようぜ。」


「……はい。」


先輩たちは、ただ“結果を出している人”ではなく、無数の挫折を超えた“努力の集合体”だった。


そして、美咲もその一歩を、たしかに踏み出している。



続く 第10話:最後の内見、最初の鍵

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