第7話 チラシと勝負パンプス

第7話 チラシと勝負パンプス


土曜日の朝。普段より少し遅めの出勤。会社の制服ではなく、私服のスーツにヒールのあるパンプスを合わせて、美咲は鏡の前で小さく頷いた。


「今日は勝負の日。」


そう、今日は人生初の“現地販売会”。自分で作ったチラシ、自分の言葉で書いたキャッチコピー、自分の足で集めた地域情報。すべてをかけた現場だった。


現地は、中野区の小さな中古マンション。リフォーム済み、2LDK、価格は控えめ。週末にファミリー層を狙ってチラシを撒いた。


早朝6時からのポスティング。慣れない坂道で足はパンパン、手も冷たい。だけど、玄関ポストに一枚ずつチラシを入れながら、美咲は小さく願っていた。


「この一枚が、誰かの未来につながりますように。」


午前10時。モデルルーム風に飾られた部屋で、来客を待つ。汗をかいた背中に、冷たい空気がしみた。


1時間経過——誰も来ない。


2時間目——沈黙。


「こんなものか……」と落ち込みかけたそのとき、エントランスから子ども連れの家族がやってきた。


「チラシ、入ってたので来てみました。」


美咲はぱっと立ち上がり、笑顔で出迎えた。


「ありがとうございます! ぜひご案内させてください!」


お子さんはキッチンの収納に興味津々。ご夫婦は陽当たりと収納をしっかりチェックしていた。


「スーパーが近いのも、いいですね」

「駅までこの距離なら、通勤も苦じゃないですね。」


美咲はただ物件を説明するのではなく、この街に住んだ時の“暮らし”をイメージできるように話を組み立てた。


「このマンションの裏の坂、朝は子どもたちが登校するんです。元気な声がして、なんだか安心感があるんですよ。」


それは、ポスティングの途中で自分が感じた、リアルな印象だった。


帰り際、奥様が言った。


「このお部屋、もう少し考えてみたいです。検討リストに入れますね。」


嬉しさをこらえながら、美咲は深く頭を下げた。


夕方、会社に戻ると、ヒールを脱いだ足がじんじんと痛んだ。けれどその痛みは、どこか誇らしかった。


「自分の足で集めた、最初の“かもしれない”。」


この日、美咲は確信した。


「不動産営業に、魔法なんてない。あるのは、靴ずれとチラシと、ちょっとの根性。」


デスクにチラシの原本を置いて、彼女はそっとつぶやいた。


「次は、“決めてくれる人”を、ちゃんと見つける。」


続く 第8話:夜の内見と静かな告白

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