第6話 雨の日の契約
第6話 雨の日の契約
週の半ば、水曜日。朝からどんよりとした空が東京を覆っていた。
昼には本降りになり、美咲は駅前のカフェで濡れたスーツの袖をハンカチでそっと拭いていた。
今日は、初めての「契約」。あの葛飾の空き家——斉藤真理子さんの物件を、地域で活動しているリノベーション会社が購入することになったのだ。
売主、買主、不動産会社。三者が揃い、契約書に印鑑が押される瞬間。営業として、絶対にミスできない場面だった。
「大丈夫、練習した。チェックもした。落ち着け……。」
自分にそう言い聞かせながら、美咲は書類の入ったクリアファイルをぎゅっと抱え、貸し会議室へ向かった。
午後2時、会議室。
斉藤さんは少し緊張した面持ちで、書類に目を通していた。買主であるリノベ会社の社長は落ち着いた様子で、斜めに腰かけている。
その横で、美咲は書類の説明と進行を担当した。言葉が途切れないよう、資料の順番も頭に入れてきた。
「こちらが売買契約書です。売買代金、引き渡し日、そして特記事項に……」
いつもより低めの声で、ゆっくりと説明する。
途中、買主側から小さな質問が飛んだ。
「境界確認書、ちょっと古くないですか?」
美咲は一瞬ドキッとしたが、すぐに準備していた補足資料を取り出した。
「はい、現地の状況に変化がないことを、先週の立会いで再確認済みです。写真と立会記録もご用意しています。」
「なるほど、なら大丈夫です。」
斉藤さんがそっと美咲を見て、小さく頷いた。
そして——
売主、買主、それぞれの印鑑が最後のページに押され、契約は無事に成立した。
会議室を出たあと、斉藤さんがぽつりとつぶやいた。
「田島さんが担当で、本当によかった。」
美咲は驚いたように顔を上げた。
「私、実は……手放すって、最後まで迷ってたんです。でも、今日ここに来て、ようやく“終わった”って思えました。」
雨はまだ降っていた。でも、美咲の心の中には、少し陽が差していた。
会社に戻る途中、スマホの通知が鳴る。メッセージは、あのITベンチャー代表・柴田優人からだった。
「例の物件、もう一度一緒に見に行けませんか?」
仕事の連絡。それなのに、少し心が跳ねた。
「雨の日でも、大事な日はある。」
それを、今日確かに学んだ。
続く 第7話:チラシと勝負パンプス
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