暗雲が立ちこめる-3
翌朝、2人が目を覚まして外に出ると、母屋の道路に面した側の壁に真っ赤なスプレーで落書きされていた。クライブが落書きを読み上げる。
「“
ストーカーはターゲットを自分だと明らかにしてくれた、とイヴは覚悟を決めた。昨日までの自分だったら激しく動揺しただろう。しかしはっきりとクライブにプロポーズして貰った今では、真っ正面からストーカーと戦える。まずは自分がしなければならないことがある。それを彼に伝える。
「私、予定通り今日、この街を出るわ。ストーカーもすぐにはメガロポリスまで追ってこられないでしょうから……1度戻って、ボスに相談して、今度は南の国に行くね。そしてストーカーが捕まったらもう1度プロポーズしてくださる?」
フライトチケットはとっていないが、メガロポリス便は多い。2便か3便待てばキャンセルがあるのが普通だ。それを待つだけでメガロポリスに戻れる。
クライブは唇を噛み、その後、小さな声で答えた。
「いいとも。もちろん。約束するよ。その場所がここになるか、メガロポリスになるか南の国かは分からないけど」
そして弱々しく笑った。自信がないのかもしれないと思うと少し悲しくなったが仕方がないことだとも分かっていた。
幸い、荷造りはほとんど済ませてある。トランクケースには必要なものは詰めてある。入りきらない荷物はあとでクライブに宅配してもらうことにする。
連日呼ばれて、保安官がさすがにこれはと苦い顔をしつつ、クライブと2人で防犯カメラの映像を確認する。どうやら犯人は防犯カメラには気付いていない様子だ。赤外線映像なので人相までは分からないが、かなりの風貌が判別できた。これは大きいと保安官がいい、関係機関に連絡を回して貰うことになった。
その間にイヴは出立の準備を整え終え、クライブに言った。
「飛行場まで送ってくださる?」
「ううん……もちろんアンカレッジ空港まで送るよ」
イヴは首を横に振る。
「もうミズ・マージョリーに予約の電話を入れたの。飛行機の方がストーカーを撒きやすいと思うし、長い時間一緒に車の中にいたら、あなたと別れるのが辛くなるだけだから」
「僕も辛いよ」
イヴはクライブの顔を見られなかった。
SUVでクリークタウンの飛行場へ行く。この北の国では軽飛行機での移動は一般的なものだ。クリークタウンからアンカレッジまで軽飛行機なら20分ほどのフライトになる。利用する観光客は多く、マギーの仕事は絶えることがない。
クリークタウンの場合、飛行場といっても本当に森の中を整地しただけの野原である。それでも管制小屋と軽飛行機用のガレージが幾つも並んではいる。
アイドリング中の軽飛行機の前でマギーがイヴが来るのを待っていた。
「ハイ! まさか予定通り休暇を終らせて帰ることになるなんて、ちょっとタイミングが悪かったわね」
クリークタウンは小さな街だ。マギーも悪質な悪戯の件は耳にしていたらしい。
「お世話になります」
クライブがイヴのトランクケースを軽飛行機に積み込み、マギーを見た。
「短いフライトだが、よろしく頼む」
「それがあたしの仕事だからね。しかしあんたも情けないねえ。彼女を引き留められないなんてさ。まあ寂しくなったらおいで。気が向いたらお相手してあげるよ」
「それは別にいいかな……」
クライブはマギーに真顔で返した。
「冗談だってばさ。彼女がいる前で発破掛けたつもりなんだけど、調子狂うなあ」
マギーとしてはクライブにイヴを追いかけるくらいの発言をして欲しかったらしい。イヴは一瞬頭にきかけたが、彼女の真意に気付き、ほっこりした。それで冗談で返した。
「それは看過できませんよ」
「だから冗談だって!」
マギーは苦笑した。
マギーが軽飛行機のコクピットに収まった後、イヴは後ろのキャビンに乗り込み、ヘッドセットを装着する。軽飛行機の中ではプロペラ音とエンジン音が大きいので会話にはヘッドセットを要する。
窓の外にクライブが見える。クライブは小さく手を振っていた。
もう2度と会うことはないかもしれない。
しかし最後に自分は彼と何を話しただろうか。
別れの言葉もいわず、そのまま乗り込んでしまった。スマホを取り出すが、飛行場は圏外だ。なにも彼に伝えることはできない。
「……クライブ」
ヘッドセットを通してマギーには聞こえただろうが、機外にいる彼にその呼びかけは聞こえない。
「離陸するよ」
軽飛行機がターンして滑走路に入り、エンジンが回転数を上げる。
窓からはもうクライブを見ることができなくなる。
彼は最後まで見送ってくれるだろうか。
そんなことを考えながら、イヴは軽飛行機が地上から離れたときの浮遊感を覚えたのだった。
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