暗雲が立ちこめる-4
さて、イヴはうまいことこの街から去ってくれたか。
クライブはまずは一安心と考えながら、小さくなっていく軽飛行機を見つめ続ける。そして青い空の中に溶け込むようにして機影が見えなくなるまで、彼女を見送った。これで彼女をこの一件に巻き込むことはなくなったわけだ。
悪質な悪戯をした奴が、彼女のストーカーではないことを確信したのは朝、スプレーの悪戯書きを見たときだ。“女を殺す”と書かれていたということは、イヴに対するメッセージではなく、自分に対するメッセージだとわかった。単にイヴを目的としているのなら、“殺す”と書くはずだ。イヴを殺すと警告することでクライブを心理的に追い詰めたいのだと考えられた。
イヴのストーカーの仕業である可能性はゼロではないが、ほぼなくなったと思っていい。そう判断し、イヴがメガロポリスに帰るという選択肢をクライブは内心歓迎した。万が一にも彼女にも危害が及ぶ事態になったら、自分は正気ではいられなかっただろうから。
こんなセンチメンタルな気分が自分の中に残っていたことをクライブは嬉しく思う。また、ほんの数日の間だったが、イヴと心ゆくまで愛し合えたことを無上の喜びに思う。ベッドの上で彼女の細い身体を抱きしめ、その体温を感じ、快感を分かち合うことができたのは、奇跡だ。人間は単に快感を得るためにセックスをすることがある。ただ寂しさを分かち合うためにセックスすることもあるだろう。しかしイヴとのそれは違った。愛のためのセックスだった。
もう2度と彼女のような女性に出会えることはない。魂まで溶けて1つになれるセックスなんて、人生においてそうできる経験ではないはずだ。
問題はこれから。エスカレートするに違いない犯罪行為をどう乗り切るかだ。クライブはSUVのトランクから防弾チョッキを取り出して中に羽織り、胸にホルスターをつけ、拳銃も装備する。拳銃は先日整備したばかりだし、リボルバーだ。問題なく作動してくれるだろう。さて、相手は誰かな、と考えつつSUVに乗り込む。
大勢に恨まれているとは思うが、こんな辺境まで逃げてきた自分の居場所を突き止められる奴だ。かなり限られる。金の力がなければこうは見つけられはしない。本命のあのくそ野郎に間違いない。
SUVのハンドルを握り、飛行場から去る。飛行場から市街地まではほんの数分の距離だ。市街地に入るとスマホが着信を知らせた。スマホは鳴り続ける。もうすぐ自分の家だったので、家までいって敷地の中に車を停めてから音声通話を開始する。かけてきたのは先輩だった。
『やっと通じた! お前にもウォーカー女史とも繋がらなくて焦ったぞ!』
「ここをそっちと同じだと思わないでください。携帯の電波なんて掴めるところの方が少ないんですよ」
『それはわかってるさ。いいニュースなんだ。少しでも早く知らせたくてな』
「いいニュース……イヴのストーカーが逮捕されたというニュース以外は聞きたくないですね」
『どうしてわかった?! それだよそれ! 市警から連絡があったんだ。証拠が揃って無事、ストーカー犯が逮捕されたそうだ。これでひとまずは安心だぞ。彼女に戻ってきても大丈夫だと伝えてくれ』
クライブは笑った。それは本当にいいニュースだ。
「彼女は飛行機でアンカレッジ空港に向かっています。あと10分くらいで携帯の電波が繋がるはずです。先輩から電話してあげてくれませんか」
『そうか。今日はもともとこっちに帰る予定日だったな……しかしこっちに帰してしまっていいのか? 彼女を愛しているんだろう?』
「いいんです。ちょうどよかった。いい休暇になったのならいいな。ううん。ストーカー問題が解決したんだから絶対にいい休暇だったんだ。間違いない」
『お前の休暇も終わるといいんだが……』
クライブは少し考えてから応えた。
「終わるかもしれませんね」
『そうなのか? だってまだあいつは脱獄してから掴まっていないんだろう? それとも何か知らせでもあったのか?』
「まあ、似たようなものですかね……知らせはありました」
『どういうことだ?』
「話せば長いんですが、彼女にはその話をしないでください。きっと心配する。もしかしたら引き返してくるかもしれない」
彼女を危険にさらす事態だけは避けたい。
『おい、どういうことだ? 詳しく話せ!』
「彼女に話さないって約束してくれるのだったら話しますけどね……」
クライブは肩でスマホを挟み、SUVから降りる。
そして脇腹に激しい衝撃を感じ、地面に転がるようにしてうつ伏せに倒れ込んだ。倒れ込んだらまた、今度は別のところにすさまじい衝撃を感じた。数秒間は続いただろうか。意識はあるが動けない。身体の状態から判断するにスタンガンを使われたらしい。フィクションではスタンガンを使うと使用対象は気絶する風に描かれることが多いが、実際には電撃で神経がパニックを起こして身体を動かせなくなるだけで、意識はある。とはいえ相当パニックに陥っている。何が起きたのか分からず、少し時間が経ってからようやく頭が動き始める。
油断しすぎた。家に戻ってきたこのときこそ最も警戒しなければならなかったのに、先輩との音声通話ですっかり気を緩めてしまった。
しびれる身体に鞭を打ち、かろうじて顔を上げると、かつて裁判所で見た顔が愉悦を浮かべてクライブを見下ろしていた。
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