初めてシーカヤックに乗る-3
コーヒーをいれてもらって一服した後、イヴはパンケーキ作りにチャレンジする。イヴはクライブの指示に従って、まずはホットケーキミックスの粉をボウルに入れて卵と混ぜ、鋳鉄製のフライパンをしっかり温めてから油を敷く。そしてパンケーキの種をゆっくり注ぎ、プツプツし始めたところでひっくり返す。1度目は失敗してベシャッとなってしまったが、2枚目は無事に成功した。そのあまりの嬉しさにイヴはクライブとハイタッチしてしまった。
クライブは3枚、イヴは2枚のパンケーキで朝ご飯になる。あと温野菜とキャベツを適当に刻んでサラダにした。家庭菜園でとれた野菜ばかりだった。
「やってみれば簡単なんですね」
「慣れだよ慣れ。ブラックコーヒーと一緒でね」
クライブはバターで、イヴは蜂蜜でパンケーキを食べる。
「最高の朝ご飯です」
ブラックコーヒーも慣れると思う。
「僕も1人でないってだけでとてもいい朝ご飯だと思うよ」
「それは……全く同感です」
こんな風に答えたら絶対に聞かれるなあと思っていたら、案の定クライブが聞いてきた。
「いつから自炊してないの?」
「……実はそもそもほぼしたことがないというか」
「分からないままだと怖かったり苦手だと思うよね。少しずつやればきっと面白いとか楽しいとか思えるようになるよ」
「そうなんでしょうか」
「料理に限らずなんでもそうだと思うよ」
「時間はたっぷりあるので」
他にも何かチャレンジできることが見つかるといいとイヴは思う。
洗い物を済ませ、再び納屋に戻る。納屋でシーカヤックの説明をいろいろ聞く。しかしあまりにも情報量が多すぎて、細身で長い艇だとスピードが出て走波性が高いが、横からの波に弱く、横幅があってそこそこ長い船だと遅いが安定しているということしか耳に残らなかった。追々覚えるだろう。実際に艇を持たせて貰って重量の違いも分かった。安価なのはポリエチレンの艇でこれが1番重く、イヴ1人では持てなかった。普及しているのは軽いFRP。FRPよりケブラー繊維製のものが更に軽く、ケブラーとバイダルカは同じくらいの軽さだった。丈夫さや安定感などいろいろ考えることはあるが、まず乗ってみるならクライブのガイドでタンデムで海に出たいと思う。
「どう? シーカヤック体験してみない?」
「そうですね。睡眠不足の解消と身体の疲れが抜けたら行きたいです。なのでまずは読書と昼寝です。いつでも眠れるように」
「最高の休暇だ」
シーカヤック体験を断ったのにクライブはイヤな顔1つしない。彼はバイダルカの骨組みの調整はいったん置いて、イヴのために飲み物を魔法瓶に用意してくれた。ちょっと甘いレモン水で彼のお手製だという。
「良い読書を」
「ええ」
そしてコテージを去り、納屋に戻っていった。とてもいいホストを紹介してくれた、とボスに感謝する。さっそくニョキニョキと伸びてきてしまったクライブへの好感度を示すゲージを心の中のハンマーでバシバシと下に押しやる。身体は疲れているのに彼とこのままシーカヤックに行きたいと思ってしまう自分がいる。体調を崩したらきっと迷惑になる。だからイヴは冷静に読書を選んだのだ。
コテージの窓とドアを開けっぱなしにして北の国の夏の風を入れる。今日は気温は20度ほどと暖かく、過ごしやすい気温だ。カーテンを微かに揺らす風がとても心地よい。
ベッドに横になり、仰向けになってタブレットを開く。
今まで読んでいなかった本、なんてクライブには言ったけれど、実はそれは法律の本だったり判例だったりした。休暇の最中に読む本ではない。
こんなときどうすればいいのかイヴは思い出せない。そもそもあまりそういう休みの時に何かした記憶がない。
イヴは比較的経済的に恵まれた家庭に育った。父はやり手の弁護士で、母は専業主婦だった。父はバリバリと働き、母はイヴがキッチンに入ることを許さなかった。その分、イヴは勉強することを求められた。男の子に恵まれなかったため、イヴに弁護士になって貰いたいと両親共に願っており、その願いを叶えるために一生懸命だったのだ。そして父母の願いを叶えてメガロポリスで弁護士になったあとでも、一直線に走り続けた。
恋らしい恋をする余裕がなかった。
だからチョロいのだ、と自分を分析する。恋愛指南本でもダウンロードしようかと一瞬考えたものの、何を読んでいたのかとクライブに聞かれたとき、答えに窮しそうなのでやめた。
恋か。
あえていうなら彼だ。そう、正義の弁護士。弁護士になりたての頃、マスコミを大いに賑わせた、イヴの推しとでもいうべき弁護士がいた。彼は環境汚染事故を起こして不正を働いてそれを隠し続けていた会社の悪事を暴き、その州の大物政治家を巻き込むような大型汚職事件にまで発展し、一躍時の人になった彼だ。まだ若く、ハンサムで、絶対に彼のような弁護士になってやるんだとヒヨコ弁護士だったイヴは心を熱く震わせたものだった。
その後、仕事漬けになったのも彼のせいかもしれない。でも人生は上手くいかないものだ。疲労から来る凡ミスもあったが、なにより恨みを買ってしまい、こんな辺境まで逃げてきてしまった。これでは正義の弁護士の背中を追いかけることはできない。
はあ。
イヴは天井を見つめて大きなため息をつく。
どんな本を読もう。そうだ。料理の本を読もう。クライブはきっと紙の本を持っているはずだ。ダウンロードするまでもない。
そう思いつくと瞼が重くなってきて、瞬時にイヴは眠りに就いてしまった。
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