初めてシーカヤックに乗る-2

 イヴは窓の外がもう明るいことに気付き、ベッドの上から跳び上がるようにして起き出した。

 まずい! 絶対に遅刻だ! ボスに連絡しないと!

 しかしすぐにここがメガロポリスの自分のアパートメントではなく、クライブが建てたコテージの中だったと思い出し、徐々に記憶を蘇らせる。

 そうだ――ここに避難してきたのだ。

 落ち着け――とイヴは自分に言い聞かせつつ時計を見ると7時を回っていて驚いた。本当に7時間以上も熟睡していたようだ。ここに避難してきたのは本当に正解だった。ボスの言うとおりにして良かった。感謝だ。それによく眠れたのはクライブが食後にいれてくれたハーブティの効果に違いない。

 彼と仲良くなれたらきっといい休暇になると思うのだけど、と考えながらスエットからラフな格好に着替える。着替えは事前にここに送ってきてある荷物の中から選んだ。7分丈のパンツにロングTシャツ、上に羽織るジャケット。そんなところでいいか。色気もなにもあったものではないが、自分が楽に限る。どうせ自分を女として見る男性はクライブを含め、ここにもいないのだ。

 サンダルをひっかけてイヴは庭に出る。

 静かだ。

 耳を澄ますと聞こえてくるのは川のせせらぎの音。そして昨日は気が付かなかった鳥の声。

 家庭菜園に水がまかれた形跡がある。こんなに明るいのだからクライブが起きていないはずはないと思っていたが、もう一仕事終えていたらしい。母屋に行くと玄関にカギがかかっていた。そう遠くへは行っていないと見当をつけて納屋に行くと、入り口のシャッターが大きく開き、陽が中に差し込んでいた。

 壁には角材で組まれた船台があり、数艇のシーカヤックがぶら下がっていた。昨夜言っていたFRPやカーボンのシーカヤックだ。2人乗りと思われる、デッキに大きな穴が2つ空いたシーカヤックもある。その向かいの壁には形は同じようでも、外皮が白い布のシーカヤックが3艇、船台からぶら下がっている。納屋の中央には三角形の馬台が2つあり、そこにシーカヤックの骨組みが置かれていた。骨組みは昨夜聞いていたとおり木製だった。クライブはその骨組みに万力バイスを幾つも噛ませて固定しているところだった。

「おはよう。よく眠れたかい?」

 クライブはイヴに気付くと顔を上げ、笑顔で聞いた。

「おはようございます。これがバイダルカなんですね。とってもきれいです」

「君はいつも嬉しいことを言ってくれるね」

「本当にそう思ったことを口にしているだけですよ」

「それが嬉しい」

 クライブはクスリと笑った。自分の発言が彼の気持ちを逆なでしたりすることがないということならイヴも嬉しく思う。

「コーヒーをいれよう。そして朝ご飯を作ろう。今朝はいい朝だ」

「作業が終わってからでいいんですよ。お気遣いなく」

「ちょうどひと段落付いたところさ」

 クライブはウインクした。熊のような大男にウインクされてもロマンス的には今ひとつだと思うのだが、不思議とイヴは悪い気がしない。

「ではブラックにまたチャレンジします」

 イヴは両手で握りこぶしを作る。

「そんな無理しなくても」

 クライブは笑いながら納屋を出て、イヴもついていく。

「いいんです。私がチャレンジしたいんです」

「もちろん止めない。君の休暇は君のものだ」

 素敵な男性だな、と思う。

 どうして彼はこんな辺境でシーカヤックのガイドをしているのだろう。いや、シーカヤックのガイドは別にいい。結婚してなさそうなのがもっと不思議だ。ここに引っ込んだ理由と何か関係があるのかもしれない――そう考えてしまうのは自分の職業病だ、とイヴは反省する。

 クライブは薪オーブンの火をおこしてヤカンを天板に乗せ、そしてドリップの準備をする。ドリッパーに挽いたコーヒー豆を入れ、お湯が沸くまでの間にホットケーキミックスの袋と卵をキッチン台の上に用意した。

「今朝はパンケーキですか?」

「さすがにパンケーキくらいは焼けるだろう? 自炊のリハビリにちょうどいい」

 軽くクライブにそう言われてしまい、イヴは口を噤むしかない。さすがに不安げな表情に気が付いたのかクライブは小さな声で聞いた。

「……まさか?」

「そのまさかです」

「それはコテージ住まいそのものが無謀だったのでは……でも、それはそれでいいかな」

「そう、なんですか?」

「君と一緒に料理する時間を僕が楽しめるってことさ」

「ずっと作っていただこうとは思ってませんよ」

 でもクライブはすごく前向きだと思う。自分に料理を教えるなんて面倒なはずなのに、楽しみと言ってくれた。それはとても嬉しいことだ。

 あ、まずい。

 イヴは自分の胸がいつになく甘く弾んでいることに気付く。

 自分、いくら何でもチョロすぎないかと思うのだが、そもそもこんな風に優しくしてくれる男性はメガロポリスにはいなかった。だから仕方がないとイヴは自分を肯定する。この程度で留まれば迷惑にはならないはずだ。うん。

「そうだね。でもメガロポリスに戻っても自炊できるくらいになるといいね」

 彼の言うとおり、自分はメガロポリスに戻る身だ。辺境で恋をして先があるわけではない。それはわかりきっている。でも。

「まずパンケーキからがんばります」

 イヴの言葉に、クライブは微笑んだ。

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