疲れてしまった-3

 道路案内看板を見かけてからも5分ほどSUVは走り、数軒の民家がある集落のうち、その1軒の敷地に入った。敷地はとても広いがこの辺では当たり前の広さだろう。家庭菜園があったり、アウトドアテーブルが設置されていたりする。家屋はこの辺では当たり前に見られるログハウスだが、とても築浅とは呼べない古いものだ。

「やっと我が家に到着」

 クライブはSUVを敷地の端に停めると、助手席側に回り込んで扉を開けてくれる。また、降りるのにも手を貸してくれる。熊みたいな風貌なのに紳士だ。嬉しいが、イヴは少し違和感を感じる。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 そしてバックドアを開けてトランクケースを軽々と取り出し、クライブは母屋へ歩き出した。カーディガンを羽織っていても寒い。明らかにアンカレッジより気温が低いと思われた。おそらく15度を下回っているだろう。

 母屋のほかには大きな納屋と真新しい小さなコテージがあり、これもまたログハウスだ。来る前にボスから聞いた話ではオーナーの手作りだったはず。確かにこの熊のような大男であれば、こんな小さなログハウスくらいすぐに建ててしまう気がする。コテージの隣には建築中のログハウスがある。どうやら数を増やそうとしているらしい。

「君が泊まるのはあちらのコテージだけど、案内は後でいいかな」

「はい」

 母屋の前は屋根があるテラスになっていて、テーブルと椅子が置かれたその奥に玄関がある。奥行きはかなりあるようだ。平屋なのでかなり築面積を取っているのだろう。

 玄関に入ってすぐは風除室になっていて、風除室を抜けるとすぐにリビングになっていた。奥にカウンター、そして廊下が延びていた。北側には暖炉が見える。男性の1人暮らしにしては小ぎれいだ。屋内は暖かい。

「好きなところに座って。今、コーヒーをいれるから」

「はい」

 リビングのテーブルかカウンターか。イヴはカウンターの椅子に腰掛け、西側の窓から外を見る。少し離れた隣の家のほかに河原も見え、その奥に幅が広い川もちらりと見えた。

 クライブはキッチンでなにやら作業しているが、カウンターに座っているイヴからは何をしているのか見えない。しかしヤカンがコトコトと音を立て始めたのは分かる。クライブはキッチンの作業台でコーヒー豆を挽き始めたようだ。そのほかの音は聞こえてこない。カウンターから離れ、窓を開けてみる。爽やかな風が吹き込んできて、レースのカーテンを揺らした。

「いい風」

 穏やかな時間。

 メガロポリスとはまるで時間の流れ方が違うのが分かる。時間の感覚とは外部からの刺激だと聞いたことがある。情報量が少なく、その情報が穏やかであれば時間はゆっくり進み始めるのだろう。

 イヴはしばらく窓の外を眺め続け、流れる川面を見つめる。川面のさざ波が陽に反射してキラキラしている。まるで生きているようだ。

 クライブは両手にコーヒーカップを持ってリビングに来て、カップの1つをカウンターに置いて言った。

「気に入ってくれた?」

「とても素敵」

「それは何より」

 イヴはカウンターに戻り、漆黒の液体が入ったカップを見た後、クライブを見上げた。

「これは有料?」

「サービス、というか、それってどういう意味?」

「だってここ、ゲストハウスですよね」

 クライブはカップのコーヒーをすすった。

「なるほど……向こうのコテージは貸し出しゲストハウス用に作ったって言ってあったから……ううん。飲食はサービス料込みだよ。気にしないで。砂糖とミルクもあるよ」

「いいえ。ブラックでいただきます」

「それはとても嬉しいね」

 クライブはコーヒー好きなのだろう。

 イヴも立ったままコーヒーのカップに唇を付ける。しばらく何も口に入れていなかったから新鮮な気持ちでコーヒーを味わえる。複雑な苦みと酸味。美味しいというより興味深いと思う。

「その様子ではお気に召さなかったようだ」

 イヴは首を横に振る。

「必ず慣れます。経験がそう言っています」

「そうなんだね」

「資料を頭に入れるためにコーヒーメーカーの煮詰まったコーヒーにお湯を入れて飲んでいたんですから、それと比べたらこのコーヒーは実に高級ですよ」

「それはかなりマズそうだ」

「実際美味しくなかったです」

 ふふ、とクライブは笑い、イヴも笑う。

 いい出会いだったとあとから振り返ることができそうだとイヴは思う。

 その後、クライブはイヴをコテージに案内し、中の説明をしてくれた。ワンフロアでIHのキッチンスペースがあり、快適そうなベッドが置かれていた。それ以外の調度品はなくシンプルだ。窓からは緑の山嶺が見える。山は頭に白い雪を被っている。7月でも雪が溶けることがないのだろう。内装がシンプルでも窓からの眺めが素晴らしければそれで十分だ。

 クライブはここで自炊してもいいし、母屋に食べに来てもいいと言った。

「いきなり自炊はハードルが高いので、母屋で一緒に料理させていただいてもいいでしょうか」

「もちろんだよ。君の自由にしていいんだ。ここでは他人と自然に迷惑を掛けなければ何をしてもいいんだ」

 クライブは穏やかな声色で言った。自分と一緒に料理することは迷惑ではないらしい。イヴの事情を配慮してくれているのだろう。

「自由の意味を振り返る1ヵ月になるといいと思います」

 クライブは頷き、イヴにカギを渡すと母屋に戻っていった。鍵を閉める時に内側に頑丈なかんぬきがあることに気付き、ゲストハウスらしい宿泊者への配慮を感じた。

 イヴは朝早くメガロポリスを発ったが、時計を見るともう午後6時を過ぎている。しかしまだ太陽は高いところにある。高緯度地域なので夏は昼間の時間が長いのだ。今は夏至の時期。まだまだ昼間の時間が続くのだろう。

 しかしイヴは空の旅でも安心できず、まんじりともできなかった。空港からここまで来るドライブでも少々疲れを感じていた。目の前には快適そうなベッドがある。陽に当たって温かそうだ。

 イヴはロングワンピースが皺になるかもしれないのに、そんなことを気にすることなく、倒れ込む。ログハウスは意外と暖かい。何も被らない。ここまで来ればもう安心だろう。

 イヴは天井を一瞬も見ることなく瞼を閉じると、数週間ぶりに安らかな眠りに就いたのだった。

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