疲れてしまった-2
SUVはハイウェイを走り、カーナビのMAP上ではすぐに海岸線を走るようになる。だが、まだ海は見えない。正面に山麓が遠くに見えていたが、その右手に陽に輝く青い海が見え、広がるや否やイヴェットはうわあと声を上げてしまう。
「海だ~~!」
メガロポリスは港町で海はすぐそこにあるが、仕事に追われていたイヴェットが海を見るのは年に両手の指の数ほどもなかった。地下鉄でアパートメントと弁護士事務所と裁判所を行ったり来たりの生活を数年間続けた。最初はやる気満々でどんな困難でも乗り越えられると思っていたが、心のエネルギーが有限であることを今のイヴェットは実感している。しかしその心のエネルギーはきれいな光景を肉眼で見ることで回復するのだと今、大いに体感できた。
「これからいくらでも見られる。コテージに引きこもっていなければね」
「そんなもったいないことをするはずがないじゃないですか」
イヴェットがムキになったように答えたからか、クライブはゲラゲラと笑った。どうやら本当に可笑しかったらしい。イヴェットはムッとしてしまうが、彼に悪気はないと思い直すことにする。そんな風に心を広く持てるくらいこの北の国の海は広く、青かった。浅瀬が広がっているし、対岸も見えるのでおそらくかつては氷河があり、氷河期の終わりとともに溶け、海の水が入り込んできた地形だと思われる。いわゆるフィヨルドというやつだ。そんな地形の名称を習ったのは遠い記憶だが、覚えているものだなとイヴェットは自分を褒める。
カーステレオからはビートルズが流れ始める。デビュー曲の「LOVE ME DO」で一気に60年代だ。歌詞は脳天気な曲だなと思うが、不思議とSUVでの海岸線のドライブに合っているとも思った。
「古い曲がお好きなんですね」
「音楽を聞く趣味はなくてね、3年くらい前から聞き始めたんだ。だからそのとき出会った音楽が僕にとっての出会いの時というわけ。古いも新しいもないかな」
「意外と今どきの音楽の出会い方をされるんですね」
動画投稿サイトで昔のアーティストの曲に初めて出会う人が増えているとネットニュースで見た覚えがあった。いい音楽を知るのにそれがTVやラジオで流れている必要はないのだ。しかしクライブは自嘲気味に応える。
「アンテナが低いともいう」
「別にアンテナが低くても、音楽なしでも生きていけるじゃないですか」
「でもあった方がいい、と今は思っている」
イヴェットは助手席で頷く。
「好きな音楽がある生活。それだけで価値があると私は思います」
「ありがとう。ミス・ウォーカーには好きな音楽のジャンルはあるのかな」
「イヴで結構ですよ。少なくとも1ヵ月はお世話になるのですから……」
そう。イヴがボスから命じられた休暇は1ヵ月。それも最低期間だ。
「では僕もクライブと呼んでくれると嬉しい」
「ええ。クライブ」
彼がたくわえる豊かなヒゲの奥で、口角が上がった気がした。
「ではイヴ。君はどんな音楽が好きなんだい?」
そう聞かれてイヴは露骨に眉をひそめてしまった。
「すみません。特に。インストルメンタルくらいしか聞きませんね」
それも雑音を消して集中するために聞くことばかりだった。
「謝ることなんかないさ。僕もインストルメンタルを聞くよ」
気を遣って貰っているな、とイヴは思う。ボスから事情は聞いているだろうからそれはそうか、とも思う。
カーナビのMAPの方向が変わり、フィヨルドの奥まで来て、アンカレッジのフィヨルドを挟んだ反対側に回って来たことが分かった。
道路案内看板に『ワイルドライフ・コンサベーション・センター』の文字が見えた。クライブが教えてくれる。
「病気やケガをしていたり、親を失ったりした動物の保護区なんだ。野生動物を間近に見ることができるよ」
「そんなところがあるんですね」
「観光客もいっぱいくるんだけどな」
一般によく知られた施設らしい。少し呆れたような感じだ。仕事漬けだったことをこんなところでもクライブに推察されてしまい、イヴはどうすればいいか分からなくなる。
「もし見てみたかったらいつでも言ってね。車を出すから」
クライブは優しげな口調で続ける。不安を見て取られたのかもしれない。
「ええ……きっと」
イヴは頷いた。
SUVは山間に入っていく。カーナビを見るとこちら側の海岸線に道路はない。海岸線が険しいため、谷間に道を作ったのだろうと思われた。そして北上し、再び海岸線の道路を走り、イヴは干潟を眺めながら目的地にいつ着くのだろうと思いを馳せる。アンカレッジを出発してから1時間と少し経ってクライブが言った。
「もう着くよ」
道路は海岸線を離れて森の中を切り開いた場所を通るようになり、時折、脇道を見かけるようになった。脇道には、入ってすぐに車が数台停まっていたり、民家があったりする。徐々に人の気配がしてくると、すぐ先に小さな個人商店が見え、その後から次第に民家が増えてきて、街の中に入ったことが分かった。
そしてようやく『クリークタウン』という道路案内看板が現れ、クライブは穏やかに笑った。
「ようこそクリークタウンに」
「思ったより民家があるんですね」
「僕の家は河口付近のもう少し人の密度が低いところだけどね」
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