本編

第1話 疲れてしまった

疲れてしまった-1

 メガロポリスから8時間弱の空の旅をして、イヴェット・ウォーカーは北の国アラスカの玄関口、アンカレッジ空港に降り立った。北の国は本国から別の国を1つ隔てた、半分以上が北極圏の州である。人口73万人、1平方キロあたり人口0・5人。未開拓の原野が広がる自然豊かな土地と一般的にいわれている。その人口の半分は空港があるこのアンカレッジ近辺に集中しており、それ故それなりに都会で、イヴェットはどこにでもある地方の空港と変わらないな、という印象を受けた。

 しかし、寒い。涼しいというよりも寒い。空港ロビーの電光掲示板を見ると気温は19度しかない。真夏のメガロポリスの暑さを思えば、北の国はやはり寒かった。そもそも北極域なのだから当たり前だなと思いつつ、流れてくる荷物を受け取り、トランクケースを引きながら出口に向かって歩いていくと、段ボール片を掲げた男性が彼女の目に入った。その段ボール片には自分の名前が書かれている。

 その男性の印象は一言でいえば『熊』であった。

 身長は180センチを大きく上回り、ブラウンの髪は長く、後ろでまとめ、ヒゲも生やしている。ヒゲはきちんとトリミングしてあるので見苦しくないが、食事の邪魔になりそうに思える。年齢は分からないが、40歳は越えていないと思う。前髪にやや隠れている青い目が印象的で、思い出せないがどこかで見たことがある気がする。ファッションはいわゆるアウトドア系でまとめており、それが実にしっくりときている。

「ミスター・クライブ・グッドマン?」

 イヴェットは彼を少し見上げて尋ねた。彼女の身長も高い方だが、第一印象の熊は伊達ではない。やはり大きい。

「もしかして……ミス・イヴェット・ウォーカー?」

 彼は目を大きく見開き、また、ヒゲの奥で笑ったように見えた。穏やかな低い声。悪くないホストではないか。北の国に到着早々好印象を受けてイヴェットは小さく心の中だけで肩をすくめる。

「ええ。私がウォーカーです。しばらくお世話になります」

 ほんの少し間が空いて、クライブはおそらく明るい声を作って言った。

「勝手は大いに違うと思うけれど、気分転換していってくれると嬉しい」

「ええ。そのつもりです」

 我ながら素っ気なく答えてしまったな、とすぐに反省し、言い直す。

「是非くつろがせてください」

 その答えに満足したのか、クライブは目を細めた。

この国アラスカには自然と自由な時間だけはたっぷりあるからね」

「それに涼しさも」

「はは。過ごしやすい季節は短い。その格好じゃ寒いと思うけど……」

「そうですね。上着を出します。少々お待ちください」

 メガロポリスでは連日33度超だった。機内の冷房も20度ほどだったので、肩出しのロングワンピースだ。待合のベンチの前でトランクケースを開けて、イヴェットはカーディガンを羽織る。

「その靴もあまり出番はないかもしれないね」

 クライブがイヴェットの足下を見て小さな声で言った。習慣でいつもの高いヒールの靴を履いてきてしまった。

「荷物にはスニーカーも入れてあります」

「荷物は昨日到着しているよ」

「足りないものがあっても買いに行ける距離なんですよね?」

「……うん。1時間くらいしか離れていないから」

 その間が何故生じたのかはイヴェットにはよく分からなかった。

 クライブがトランクケースを引いてくれ、彼のあとを歩いて空港の駐車場に至る。彼の車はミドルクラスのSUVで、イヴェットはいかにも北国の乗り物という印象を受けた。彼はSUVのバックドアを開けると軽々とトランクケースを持ち上げ、それを後部の荷室に置いた。そして彼は助手席側のドアを開け、イヴェットに乗るよう促す。

「ありがとうございます」

「いえ、どういたしまして」

 助手席に収まり、シートベルトを締めてからイヴェットは言った。

「車のドアを開けていただいたの、生まれて初めてです」

「君の周りの男性はいったいどんなんだったんだ?」

 クライブはハンドルを握り、SUVを発進させる。そしてカーステレオで音楽を流し始める。80年代90年代のポップスやロックが主で、音楽については懐古主義者なんだなとイヴェットは思う。

「そうですね……まあ、足の引っ張り合いが当たり前の職業ですから」

「そうか。弁護士だものね。雇われ弁護士で終わるか経営者側に回るかで人生は大きく変わる」

「ボスから聞いたんですか?」

「まあ、そんなところかな」

 少し言いよどみがあったが、イヴェットは気にしないことにする。辺境の北の国で1人暮らしをしている男性だ。これまでの人生で何か一悶着あったとしても自然――と考えるのは職業病かもと少々反省する。

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