第6話「静かな種まき」

放課後の図書室には、誰もいなかった。


静まり返った本棚の間を、足音だけがコツ、コツと響いていく。

晶は、手にした辞典をそっと棚に戻した。


「スプラウト……発芽、ね」


スマホのARで見た“語彙の芽”は、きれいだった。

けれど、それがどこから生まれたのか、本当のところはまだよく分からない。


そのとき、背後からやわらかな声が聞こえた。


「“ことばは、種にもなるし、刃にもなる”――誰の言葉だったかな」


振り返ると、そこには眼鏡をかけた中年の男性。

黒板よりも辞書が似合いそうな静かな雰囲気の人だった。


「……先生、でしたっけ?」


「ああ、ごめんね。君のクラスは直接担当してないけど、国語を教えてる者です。

さっき、語源辞典を眺めてたね。めずらしいなって思って」


晶は、少し肩をすくめて答えた。


「AIに“語彙力を育てろ”って言われてて……なんか、それっぽい本を探してた感じです」


「なるほど。言葉は育つ……いいね。けど、言葉って“育てる前に、自分のなかに種がある”って、知ってた?」


「種?」


先生はそっと、机の上に薄い詩集を置いた。


「この中にある詩は、語彙も文法も完璧じゃない。でも、不思議と“刺さる”。

なぜかわかる?」


晶は首をかしげる。


「……気持ちがこもってるから?」


「そう。語彙は、“自分の中の気持ちを写す鏡”なんだよ。

そして、鏡は、使えば使うほど曇ることもある」


「使いすぎると……?」


「たとえば、“すごい”“やばい”“エモい”──何でも包みこめる言葉は、便利だけど、気持ちの形をぼかしてしまう。

逆に、“どうして自分はそう感じたのか”に目を向けると、言葉はくっきりするんだ」


先生は、辞書のページを開いた。


「たとえば、『恥ずかしい』。語源は“端(はし)を感じる”。

自分がどこかに追いやられてるような、そんな感覚からきてるんだよ」


「へぇ……知らなかった」


「語彙って、過去の人たちの“感じたこと”の記録なんだ。

だから、自分の中の感情と、昔の誰かの感情が、一つの言葉でつながる瞬間がある」


それは、AICOのリライトとも少し違っていた。

どこか、もっと泥くさくて、手ざわりのある言葉だった。


「ことばは、知識じゃない。感情と、記憶と、痛みと、よろこびと……

それらが重なって初めて、意味を持ち始めるんだと思うよ」


先生は、そっと詩集を晶に手渡した。


「もしよかったら、読んでみて。

君が使う“語彙”が、君だけの表現になりますように」


その夜、晶は詩集をめくった。

短くて、未完成みたいな詩ばかりだった。


でも、不思議と、胸に引っかかる言葉がいくつもあった。


“悲しみは、風のにおいに似ていた”

“声にできなかった音が、目の奥で鳴っていた”


AICOのような正確さはない。

けれど、そこには、誰かの“本気の気持ち”があった。


語彙は知識じゃない。

──語彙は、鏡だ。


その鏡に、自分の感情を映してみたくなった。


晶は、ノートを開いて、今日の気持ちを、たった一行で書いてみた。


「帰り道のオレンジ色が、なぜか胸に残っている」


うまくはない。

でも、うそじゃなかった。


そのとき、心の中で、カチッと何かがはまる音がした。


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