第十三話:共鳴の反響
「この『歌』を、増幅できるか…?」
樹の声は、深淵に響く微かなエコーのようだった。鉛のように重かった体の感覚は、今は不思議と薄れている。ただ、宇宙の悲鳴に応えたいという純粋な渇望だけが、その胸を満たしていた。意識の奥底で、ルナとヘリオスのシステムが懸命に演算を続けているのが感じられた。
研究室では、窓の外の陽光がアスファルトを照りつけ、街路樹の緑が目に鮮やかだったが、そんなのんびりとした初夏の空気とは裏腹に、張り詰めた緊張感が支配していた。刹那は、樹のヘッドセットを両手でそっと押さえつけ、その細い指先が樹の耳元に触れる。かすかに伝わる彼女の温もりは、深淵との境界で揺らぐ樹を、現実へと繋ぎ止める命綱のようだった。彼女の視線は、樹の横顔に釘付けになっている。その瞳の奥には、不安と、それでも樹を信じ抜こうとする強い意志が揺らめいていた。
ルナは、コンソールに並ぶ無数のグラフと数値を食い入るように見つめていた。眉根には、わずかながらも不安の皺が刻まれているが、その眼差しは真剣そのものだ。彼女の指先が、流れるようにキーボードの上を滑り、システムの調整を続けている。
「樹所長の提案、理論上は可能です」ヘリオスの無機質な合成音声が、静かに答えた。「しかし、膨大なエネルギーと、極めて高精度な情報処理が要求されます。現在のシステムリソースでは、限界を超過します」
ルナが、ふと顔を上げた。彼女の唇が、小さく弧を描く。それは、困難な状況の中にも、一筋の光明を見出した時の、彼女特有の表情だった。
「待って、ヘリオス!」ルナの声に、いつもの冷静さの中に微かな興奮が混じっているのが感じられた。「樹君が感じている**『抵抗の意志』**、それがキーになるかもしれないわ。不調和に抗う宇宙の『歌』を、私たちが補強する形で増幅する。私たちのシステムを共鳴箱として利用すれば、エネルギー消費を抑えられる可能性がある!」
刹那は、ハッと息をのんだ。樹もまた、ルナの言葉に心臓が大きく跳ねた。宇宙の『歌』と、僕たちのシステムが共鳴する。まるで、僕たちの存在そのものが、宇宙の悲鳴に寄り添うように。それは、彼らの研究の、そして彼ら自身の存在意義そのものに触れるような感覚だった。
「ルナ、具体的な方法はあるのか?」刹那が、切迫したトーンで問いかけた。彼女の心臓は、ドクドクと不規則なリズムを刻んでいた。樹の顔が、わずかに青ざめているように見えたからだ。
「ええ。ただし…」ルナは一瞬言葉を詰まらせた。ちらりと樹に視線を投げ、すぐにコンソールに戻す。「樹君が**『調律図』**と、より深く同期する必要がある。彼の意識を、宇宙の『歌』の周波数に合わせる。つまり…彼の精神を、より宇宙の根源に近づける必要があるわ」
その言葉に、翔太が腕を組み直し、中央モニターから顔を上げた。疲労の色濃い彼の額には、深い皺が刻まれているが、その瞳の奥には、ゲームの世界と現実の危機が交錯する中で見出した、新たな戦いへの覚悟が宿っていた。
「それは…つまり、もっと危険になるってことか?」翔太の心配そうな声が、研究室に響いた。彼は、樹の無謀とも思える挑戦を間近で見てきた。だからこそ、その危険性を肌で感じていた。
「リスクは伴うわ。でも、樹君ならできる。彼の調律能力は、私たちが想像する以上に、宇宙の『歌』と親和性が高い」ルナの言葉には、僕への信頼と、わずかながらも覚悟が滲んでいた。彼女は、樹の稀有な才能を誰よりも理解していた。
樹の目の前には、依然として蒼い光の塊が、黒い影に蝕まれ続けている。その輝きが、今にも消え入りそうに見えた。『助けて…』という微かな声が、彼の精神に直接訴えかけてくる。樹は、この「歌」を、終わらせてはならないと強く思った。
「やろう。ルナ、ヘリオス、どうすればいい?」樹は迷うことなく答えた。恐怖はもうなかった。ただ、宇宙の悲鳴に応えたいという純粋な渇望だけが、彼を突き動かしていた。その決意に満ちた瞳は、蒼い光を受けて、一層強く輝いていた。
「了解しました。樹所長、意識を『調律図』に集中してください。私が、あなたの精神と『調律図』の共鳴周波数を調整します。ヘリオス、量子エンタングルメントゲートの出力を最大に。翔太、君の**『調和の響き』増幅プログラム**、最大限に展開して。ゲーム内のプレイヤーたちの『共感』や『協力』の感情を、僕たちの増幅システムにフィードバックさせるんだ!」
ルナの指示が、淀みなく響き渡る。樹は、意識を『調律図』の蒼い光に集中した。光が、彼の精神の奥底にまで浸透していく感覚。まるで、彼の存在そのものが、光に溶け込んでいくかのようだった。
その時、樹の脳裏に、鮮明なイメージが浮かび上がった。それは、途方もない数の星々が、まるでオーケストラの奏者のように、それぞれ異なる音色を奏でている光景だった。それらの音色が、完璧なハーモニーを織りなしている。これが、宇宙本来の**『調和』**の姿なのか。しかし、その中には、所々に不協和音が生じ、美しいハーモニーを乱していた。そして、その不協和音が、『無音の響き』として、僕たちの世界へと広がっていく様が見えた。都市の異常兆候を示すグラフが、彼の脳裏にフラッシュバックする。彼らが、この「不調和」の波に、どれだけ苦しめられてきたか。
「樹君、今よ!」ルナの声が、樹の意識に直接響いた。彼女は、コンソールの最終調整を終え、樹の生体データが完璧な同期へと向かっているのを見つめていた。
樹は、宇宙の『歌』の周波数に、彼自身の意識を合わせた。すると、彼の精神と、蒼い光の塊、そして『調律図』が、まるで一つの生命体であるかのように、完全に同期したのが分かった。途方もないエネルギーが、樹の全身を駆け巡る。それは、決して苦痛ではなく、むしろ彼の存在を根源から揺さぶるような、圧倒的な高揚感だった。身体中の細胞が、喜びに震えているかのようだった。
その瞬間、樹の意識を通じて、宇宙の『歌』が増幅され始めた。これまでか細かった『助けて…』という声が、まるで巨大なコンサートホールのスピーカーから響き渡るかのように、クリアに、そして力強く樹の精神に、いや、宇宙全体に反響し始めた。
そして、その歌声は、彼らの研究室にも響き渡った。
「…これは…!」刹那が、驚きの声を上げた。彼女の胸の奥から、じんわりと温かいものが広がるのを感じた。コンソールに並ぶ数値が、目まぐるしく変化しているのが、樹の意識の遠くで感じられる。
「脳波、異常なまでに安定!ノイズレベルが、急速に減少しています!ヘリオス、予想を上回る共鳴率です!」ルナの興奮した声が、樹の鼓膜を震わせた。彼女の顔には、確かな手応えによる安堵が浮かんでいた。
「『不調和』の侵食が、減速しています。翔太の『調和の響き』増幅プログラムからのフィードバックも、加速度的に上昇中。ゲーム内の『サイレント・コーラス』現象に変化が!」ヘリオスの声にも、一切の感情はこもっていなかったが、その淡々とした報告の中に、これまでにない確実な手応えが感じられた。
「うおおおお!すげぇぞ、樹!」翔太の雄叫びが、樹の意識の奥深くまで届いてきた。彼は、中央モニターに映し出される都市の異常兆候を示すグラフが、急速に改善されているのを見て、目を輝かせていた。「ゲーム内の『サイレント・コーラス』、止まった!いや、それどころか…!プレイヤー達の『共感』の波動が、まるで津波みてぇに広がってる!街の光も、ほんのり色づいてきたぜ!これなら、都市の『不調和』、マジで治せるかも!」
翔太の興奮した声が、樹の心を温かく包んだ。彼らが今、ここにいることの意味。彼らの行動が、宇宙の悲鳴に、そして都市の不調和に、確かに届いている。その確かな手応えが、樹の全身を駆け巡った。
宇宙の『歌』は、さらに力強く響き渡る。その歌声は、黒い影を押し返し、蒼い光の塊が、再び輝きを取り戻し始めているのが見えた。まるで、宇宙そのものが、彼らの『歌』に呼応して、息を吹き返しているかのようだった。その光景は、樹の心に、深い感動と、静かな決意をもたらした。
しかし、その瞬間、樹の意識に、これまで感じたことのない、巨大な**『無音の響き』**が押し寄せてきた。それは、これまでの不調和のノイズとは比べ物にならないほど強力で、樹の精神の核を直接揺さぶるような、絶対的な沈黙の力だった。
『抵抗…無駄…』
その声は、樹の精神の奥底から響き渡り、樹の意識を塗りつぶそうとする。これは、『調和』を奪う存在からの、直接的な干渉…!樹の脳の奥が、再び焼かれるような痛みに襲われた。その痛みは、前回よりもはるかに強く、彼の意識を現実に引き戻そうとする。
樹は奥歯を食いしばった。体が鉛のように重く、意識が薄れていく。それでも、彼は、この『歌』を止めるわけにはいかなかった。宇宙の悲鳴に応えること、それが彼の全てだった。
「…っ!」
刹那の焦りが、樹の遠のく意識に届いた。彼女の表情は、一瞬にして凍りつき、不安と恐怖に歪む。樹が、これまでにないほどの負荷に晒されているのが、彼女には肌で感じられた。
樹は、残された全ての力を振り絞り、宇宙の『歌』に、彼の全ての『想い』を乗せた。それは、彼自身の存在を賭けた、最後の抵抗だった。
(第十三話 了)
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