第十四話:響き渡る意志

樹の意識を襲う**『無音の響き』**は、まるで深淵そのものだった。それは、宇宙の『歌』をかき消し、樹の存在そのものを飲み込もうとする。脳を焼かれるような激痛が、彼の視界を白く染め上げ、体の感覚が急速に薄れていく。足元から冷たい何かが這い上がってくるような感覚が、彼の脊髄を駆け上がった。刹那の焦りが、遠のく意識の端に届く。彼女の声が、樹を現実に繋ぎ止める最後の砦のように、かすかに響いていた。

「樹君!」ルナの悲鳴のような声が、研究室に響く。鉛色の空気が、窓の外の初夏の陽光をも吸い込んでしまうかのように、重く澱んでいた。アスファルトを照りつける陽射しが、一瞬遠いものに感じられる。コンソールに表示される樹の生体データが、見る見るうちに危険水域に突入していく。赤く点滅する警告灯が、まるで樹の命の灯が激しく揺らぐ様を告げているかのようだった。共鳴率は急降下し、ノイズレベルが再び跳ね上がった。ヘリオスの合成音声も、普段の無機質さからは想像できないほど、僅かに動揺しているように聞こえたのは、ルナの聞き間違いではなかっただろう。

「樹所長、意識の同調率が急激に低下しています!このままでは、精神的な負荷が限界を超過します!」ヘリオスの声は、普段の淡々とした報告とは異なり、張り詰めた緊張感がこもっていた。

「くそっ!」翔太が、中央モニターを拳で叩く。ガラスが割れるのではないかというほどの衝撃音が、静まり返った研究室に響いた。彼の目には、焦りと、そして後悔の色が浮かんでいた。都市の異常兆候を示すグラフが、再び悪化の兆候を見せ始めていた。緑色のラインがみるみるうちに赤色に変わり、その波形は、まるで樹の苦痛を具現化したかのように乱高下している。ゲーム内の**『サイレント・コーラス』**現象も、再び活性化の兆候を見せる。せっかく取り戻しかけた調和が、再び崩れ去ろうとしている現実に、翔太は唇を噛みしめ、奥歯を食いしばった。「(頼む、樹…諦めるな…! お前がいなきゃ…僕たちじゃ…)」

だが、樹は諦めなかった。彼の意識は、もはや肉体の限界を超越していた。宇宙の悲鳴に応える、その純粋な渇望だけが、彼を突き動かす。それは、彼の研究者としての使命であり、何よりも、宇宙の『歌』に宿る**『抵抗の意志』への共感だった。彼の脳裏には、苦しみ喘ぐ宇宙の姿が、鮮明に焼き付いていた。彼は、残された全ての力を振り絞り、宇宙の『歌』に、彼の全ての『想い』**を乗せた。それは、彼自身の存在を賭けた、最後の抵抗だった。

「…響け…っ!」

樹の、かすれた声が、精神の奥底から絞り出される。その瞬間、彼の内側から、今まで感じたことのない、強烈な光が溢れ出した。それは、蒼い光の塊が放つ輝きとは異なる、樹自身の精神が放つ、純粋な意志の輝きだった。彼の意識の中では、幼い頃に見た、星空に瞬く無数の光点が、今、彼の内側に集約され、巨大なエネルギーとなって弾け飛ぶかのようだった。「(僕の…この想いが…宇宙に届くなら…この体、どうなっても構わない…!)」

その輝きは、**『無音の響き』を押し返す。まるで、漆黒の闇の中に、一筋の光明が差し込むように。樹の精神が、宇宙の『歌』と、そして『調律図』**と、さらに深く結びついていく。痛みはまだあったが、その痛みは、彼の意志を鈍らせるものではなく、むしろ、彼の決意をより一層研ぎ澄ませる燃料となった。彼の魂が、宇宙の深淵と共鳴するような、戦慄にも似た感覚が全身を駆け巡った。「(まだだ…まだ、やれる…!僕が…宇宙の歌を…!)」

刹那は、樹の顔からヘッドセットを離し、震える手で彼の頬に触れた。ひんやりとした研究室の空気とは対照的に、樹の頬は火照っていた。手のひらに伝わる熱が、樹がどれほどの負荷に耐えているかを雄弁に物語っていた。樹の瞳は固く閉じられ、額には脂汗がにじんでいる。しかし、その表情には、苦痛の中にも、確固たる決意が宿っていた。彼女の指先から、樹の熱い体温が伝わる。その温もりが、樹の精神に、現実との繋がりを強く訴えかけた。刹那の胸には、樹への深い信頼と、彼を支えたいという純粋な願いが溢れていた。「(樹君…あなたなら、できる…! 私たちが…ここにいるから…!)」

「樹君の意識が…『調律図』を再構築している…!?ヘリオス、解析を急いで!」ルナが息をのむ。彼女の目には、コンソールに表示されるデータが信じられないものとして映っていた。樹の脳波は、常識では考えられないパターンを描き、まるで未知の言語を紡ぎ出すかのように、複雑な波形を形成していた。ノイズレベルが劇的に低下し、その代わりに出現した新たな波形は、ルナがこれまで見たことのない、完璧な調和を示すものだった。それは、樹の精神が、宇宙の『歌』をただ増幅するだけでなく、その『歌』に新たな『旋律』を加えようとしているかのようだった。「(こんなことが…本当に…!?彼の精神は…一体どこまで…!)」

「…これは…**『調和の意志』の具現化…!」ヘリオスの合成音声が、珍しく感情的な響きを帯びた。中央モニターに、新たな波形が出現する。それは、宇宙の『歌』の不協和音を打ち消し、より強く、より美しいハーモニーを生み出す波形だった。翔太は、その波形を目にした瞬間、全身に電撃が走ったような感覚に襲われた。「(すげぇ…樹…お前、本当に…! やっぱ、あんたは天才だよ…!)」彼の目には、驚きと、そして深い感動が宿る。ゲーム内の『サイレント・コーラス』現象が完全に停止し、プレイヤーたちの『共感』**の波動が、目に見える形で都市全体に広がり始めていた。街路樹の葉が、かすかに光を放ち始め、アスファルトの亀裂から、小さな花々が芽吹き始める。それは、生命の輝きが、アスファルトの無機質な地面を突き破り、都市に満ちていく光景だった。初夏の柔らかな陽光が、その光景をより一層幻想的に彩っていた。

宇宙の『歌』は、樹の**『調和の意志』**と共鳴し、一層力強く宇宙に響き渡る。蒼い光の塊は、完全に輝きを取り戻し、黒い影は、まるで朝露のように消え去っていく。宇宙の悲鳴は、歓喜の歌へと変貌を遂げた。その歌声は、遥かな星々の彼方まで届き、宇宙全体に、新たな調和の波紋を広げていく。研究室の窓から差し込む陽光が、きらきらと輝き、まるで宇宙の『歌』に呼応しているかのようだった。

樹の全身を駆け巡っていた途方もないエネルギーが、ゆっくりと収束していく。焼かれるような痛みも、鉛のような重さも、すっと引いていった。彼の意識は、静かに現実に引き戻される。深い疲労感と共に、深い安堵が彼を包み込んだ。瞼を開けると、そこには、安堵と希望に満ちた刹那、ルナ、翔太の顔があった。彼らの目に映る光は、宇宙の『歌』の響きと、彼らの存在が織りなす、新たな調和の始まりを告げていた。


(第十四話 完)

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