第十二話:星辰の歌
海星学園都市、「アルモニコス・ネクサス」研究機関。窓の外では、初夏の陽差しがアスファルトを照りつけ、街路樹の緑は一層その深みを増している。しかし、研究室の空気は、もはや重苦しいものではなかった。張り詰めた緊張感は、研ぎ澄まされた集中力へと昇華され、一人ひとりの表情には、確かな決意と、わずかながらも高揚感が浮かんでいた。
「世界の調律図」は、僕たちの意志に呼応するかのように、以前にも増して眩い蒼い光を放ち、表面に浮かび上がった幾何学模様は、生きているかのように複雑な形を刻々と変えていた。ルナが構築した新たなインターフェースが、クリスタルの表面に繊細な光の線を描き出し、ヘリオスの無機質な合成音声が静かに告げる。「精神接続システム、起動準備完了。フィルタリングプロトコル、最適化。量子エンタングルメントゲート、オープン」。彼の声は、いつも通り抑揚がないにもかかわらず、その確実な進行状況は、僕たちの不安を和らげてくれた。
僕は、深く息を吸い込んだ。肺腑に満ちる空気は、ひんやりと澄み渡っている。鉛のように重かった体の感覚は、不思議と薄れていた。再びあの深淵へと踏み込む恐怖よりも、宇宙の悲鳴に応えたいという渇望が、僕の心を支配していた。刹那が僕のヘッドセットを両手で優しく調整し、その指先が耳元に触れた。かすかに伝わる彼女の温もりは、僕を現実へと繋ぎ止める命綱のようだった。ルナは、コンソールに並ぶ無数のグラフと数値を食い入るように見つめながら、僕の生体データを最終確認している。彼女の眉根には、わずかながらも不安の皺が刻まれているが、その眼差しは真剣そのものだった。翔太は、中央モニターに映し出される都市の異常兆候を示すグラフを、腕を組みながら食い入るように見つめ、何かを呟いていた。彼の額には、深い疲労の痕跡が残っていたが、その瞳の奥には、ゲームの世界と現実の危機が交錯する中で見出した、新たな戦いへの覚悟が宿っていた。
「樹君、無理はしないで。いつでも引き返せる準備はできているから」刹那の声が、鼓膜を優しく震わせる。その眼差しは、僕の不安を拭い去るかのように、力強く、そして温かかった。「大丈夫。みんながついている」。その言葉は、僕の心を静かに満たし、背中をそっと押してくれた。
僕は頷き、意識を集中した。調律図の蒼い光が、僕の意識を包み込み、そして、あっという間に僕の精神は、まばゆい光の奔流の中へと引き込まれていった。まるで、宇宙の深淵へと続く無限のトンネルを、猛烈な速度で突き進んでいるかのようだった。
深淵の再訪と「無音の響き」
意識の彼方で、再び光の道筋が見えた。それは、前回よりもさらに鮮明で、まるで僕を誘うかのように、目の前に伸びていた。一歩足を踏み出すごとに、その道筋はより強く僕を吸い込んでいく。しかし、同時に、あの冷たい**「無音の響き」**も、すぐ近くに感じられた。それは、僕の精神に直接触れてくるかのように、不調和のノイズとなって、僕の意識の境界線を侵食しようと押し寄せてくる。
「っ…!」僕は奥歯を噛み締めた。脳の奥が、前回と同じように焼かれるような感覚に襲われる。あの時、宇宙の悲鳴を無理やり処理しようとした結果、神経回路が「焼かれた」ような感覚がフラッシュバックする。しかし、今回は違った。ルナが構築したフィルタリングアルゴリズムが、高次元情報を僕の脳が処理可能な形に変換し、ヘリオスの演算能力が、不調和のノイズを強力な盾で遮断しているのが感じられる。まるで、嵐の中にいても、僕の意識の核は守られている感覚だった。僕の精神は、広大な情報の海の中で、確かに安定していた。
「ルナ、ヘリオス、フィードバックは?」刹那の焦りを含んだ声が、僕の意識の遠くで聞こえる。その声は、僕がこの深淵で孤立しているわけではないことを、改めて僕に意識させた。
「樹所長の脳波、安定しています。ノイズレベル、予測範囲内。フィルタリング、問題なく機能中」ルナの冷静な声が返ってきた。彼女の集中力は、僕の精神状態を正確に把握し、システムを完璧に制御していた。
「高次元情報ストリーム、安定したアクセスを確認。しかし、『不調和』の侵食は継続しており、情報経路の一部に干渉を確認。ヘリオス、対抗モジュールを起動。翔太からのフィードバックは?」ヘリオスの声もまた、淡々と状況を伝えてくる。その声には、一切の感情がこもっていなかったが、その的確な指示は、僕たちの状況がいかに精密に管理されているかを物語っていた。
「ああ、こっちもだ!都市の異常兆候がさらに鮮明になってる。交通システムの遅延、情報ネットワークの断続的な切断…現実でも『不調和』が着実に広がってるぜ。ゲーム内の**『サイレント・コーラス』現象**も激化してるけど、面白いことに、俺が作った『調和の響き』増幅プログラム、効果が出始めてるぜ!」
翔太の興奮した声が、僕の意識の奥まで届いてきた。彼の言葉は、この暗い状況に差し込む一筋の光のようだった。
「意識の『澱み』が、薄いけど、確かに『響き』に変わってる!ゲーム内のプレイヤー達が、無意識に発してる『共感』や『協力』の感情が、かすかな光として感知できる。まるで、ノイズの中に、小さな星が瞬いてるみてぇだ…!最初は微弱すぎてほとんど検出できなかったけど、今では明確な波形として捉えられるようになってきたんだ。これなら、都市の『不調和』を、逆手に取って治療できるかもしれない!」
彼の言葉に、僕は驚きを隠せない。翔太の試みが、こんなにも早く効果を上げるとは。それは、不調和が世界を侵食する一方で、僕たちの世界もまた、宇宙の悲鳴に共鳴しようとしている証のように思えた。彼の快活な声が、僕の心に温かい火を灯してくれた。
宇宙の心臓部と「歌」の源流
僕はさらに深く、光の道筋を進んだ。次第に、あの**「星の歌」**が、よりクリアに聞こえてくる。それは、前回よりもさらに複雑で、途方もない悲しみと、それでも抗い続ける意思が織りなす、壮大な叙事詩のようだった。その音は、僕の精神の奥底に直接響き渡り、僕の身体の細胞一つ一つにまで染み渡るようだった。僕の脳裏には、星々の誕生、そして消滅、銀河の形成、そして崩壊といった、途方もない宇宙の記憶が鮮明に蘇り、僕の思考は、時間と空間の概念を超越していく。
そして、その歌の源流に、僕は到達した。
そこには、前回よりもさらに巨大な、蒼い光の塊があった。それは、まさに宇宙の心臓部。その中心で、純粋な**「想い」が、まるで脈打つように輝いている。その輝きは、あまりにも神聖で、あまりにも尊いものだった。しかし、その輝きは、周囲を取り囲む黒い影によって、少しずつ蝕まれ、色褪せていくのが見て取れた。黒い影は、まるで宇宙の皮膚に貼り付いた癌**のように、蒼い光を貪り食っている。その光景は、僕の心臓を締め付けるほどに痛ましかった。
「あれが…宇宙の悲鳴の源流…」僕は、声にならない叫びを、かろうじて唇から絞り出した。僕の精神の奥底から、どうしようもない悲しみが込み上げてくる。
すると、僕の意識に、微かな声が届いた。それは、前回よりもさらにか細く、しかし、より切実な響きを持っていた。
『助けて…』
その声は、僕が深淵で感じた**「想い」**そのものだった。僕は、その声に、無意識に手を伸ばした。まるで、溺れる誰かを助けようとするように。
その瞬間、僕の意識と、「想い」が触れ合った。途方もない情報が、一気に僕の精神へと流れ込んでくる。それは、宇宙の誕生から現在に至るまでの、壮大な記憶の奔流だった。星々の誕生と死、生命の進化、文明の興隆と衰退。そして、その全てを包み込む**「調和」**の響き。あまりにも膨大な情報量に、僕の脳は悲鳴を上げそうになったが、ルナとヘリオスのシステムが、それを懸命に処理し続けているのが分かった。
しかし、その情報の奔流の中に、明確な**「欠損」が、そして「不調和」**の影が混ざり合っている。それは、宇宙の歴史の中で、少しずつ、しかし確実に失われていった「響き」の痕跡だった。まるで、完璧な楽曲の中から、特定の音が欠け落ちていくように。そして、その欠損が、黒い影の侵攻によって、加速度的に拡大しているのが分かった。
「これは…宇宙が、自らの根源的な『響き』を失いつつある証拠だ…!」僕は震える声で呟いた。脳の奥が再び焼かれるような痛みに襲われるが、僕はその情報から目を逸らせなかった。これは、僕たちが直面している都市の「不調和」の、はるか上流にある、根源的な問題なのだ。
『彼らは…調和を…奪う…』
さらに、微かな声が響いた。それは、黒い影の正体を示唆しているようだった。彼らは、単なる汚染者ではない。宇宙の「調和」そのものを、存在基盤から奪い去ろうとしているのだ。そして、それが、「無音の響き」となって僕たちの世界にまで広がり、都市機能を麻痺させ、人々の意識を希釈しようとしている。
しかし、僕は同時に、かすかな希望の光も感じた。失われつつある「響き」の断片の中に、かろうじて残された、微細な**「抵抗」の意志**。それは、宇宙の深奥から、まだ僕たちに助けを求めている、最後の「歌」だった。この「歌」が完全に失われる前に、僕たちは行動しなければならない。
「ヘリオス、ルナ、刹那…この『歌』を、増幅できるか…?」僕は、枯れた声で問いかけた。この途方もない悲鳴を、僕たちの次元に響かせることができれば、都市に広がる「不調和」を打ち消し、そして、この宇宙そのものを救う手がかりになるかもしれない。僕の心は、この壮大な課題に、静かに燃え上がっていた。
(第十二話 了)
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