第三章 禁断の植物園と黒い影

あの黒いカードの警告は、私にとってむしろ格好の燃料だった。恐怖よりも先に、沸々と湧き上がる冷たい怒りと、それを上回る好奇心が全身を支配する。誰が、何の権利があって、私の行動を制限しようというのか。


まずは、あの甘ったるい香りの正体を突き止めることが先決だ。記憶の糸を辿り、かつて「楽園」の書庫で読み漁った植物図鑑のページを頭の中でめくっていく。確か、その植物は『夜香花(やこうか)』という名で記載されていたはずだ。夜間にのみ強い芳香を放ち、その香には精神を高揚させ、時に幻覚を誘発する成分が含まれる。そして、極めて特殊な土壌と湿度管理を必要とするため、自然界では滅多に見られず、栽培も困難とされていた。


「楽園」では、この夜香花を儀式や「治療」と称する精神操作に用いていたという記述もあった。まさか、あのコミュニティの残党が、この街で同じようなことを企んでいるというのだろうか? もしそうなら、話は厄介だ。彼らは、知識も技術も、そしておそらくは危険な思想も持ち合わせている。


私は再び昏倒書房の暦さんを訪ねた。黒いカードを見せ、夜香花について尋ねると、彼の眉間の皺が深くなった。


「……夜香花、か。確かに、その名を持つ植物にまつわる黒い噂はいくつか聞いたことがある。ある新興宗教団体が信者の結束を高めるために使っていたとか、海外の秘密結社が精神兵器として研究していたとか……いずれにせよ、まともな代物じゃないことだけは確かだな」

「どこかで、その植物が栽培されているような場所、心当たりは?」

「さてな。そんなものを大っぴらに育てていれば、すぐに当局に目をつけられるだろう。だが……」暦さんは少し声を落とし、「この街の地下には、古い防空壕や地下水路が網の目のように広がっている。中には、戦後忘れ去られ、誰にも知られずに利用されている空間もあると聞く。そういう場所なら、あるいは……」


地下空間。それは、光の届かない、まさに夜香花を育てるにはうってつけの環境かもしれない。そして、あの落書きが出現する場所が古い川筋――つまり、地下水路の地上部分――に沿っているという事実は、この仮説を補強する。


暦さんから得た情報を元に、私はいくつかの候補地を絞り込んだ。その中でも、最も可能性が高いと思われたのは、かつて大規模な空襲で壊滅し、その後再開発からも取り残された、街の北東部に位置する旧工場地帯の地下だった。そこには、巨大な防空壕跡が残されているという。


日没後、私は装備を整え、その旧工場地帯へと向かった。懐中電灯、ガスマスク(万が一、高濃度の夜香花の香気に曝された場合に備えて)、そして、護身用のスタンガン。身体的に非力な私が、直接的な戦闘を挑むつもりはないが、最低限の備えは必要だ。


目的の防空壕の入り口は、瓦礫と雑草に覆われ、辛うじて人が一人通れるほどの隙間が開いているだけだった。内部に足を踏み入れると、ひんやりとした湿った空気が頬を撫でる。カビと埃の匂いに混じって、微かに、あの甘い香りが漂ってくる。


「……当たり、か」


懐中電灯の光で周囲を照らしながら、慎重に奥へと進む。通路は複雑に入り組んでおり、まるで迷宮のようだ。壁には、ここにもあの歪な落書きが描かれている。それは、地上で見たものよりもさらに禍々しく、見る者の正気を削り取るような異様な力を放っているように感じられた。


しばらく進むと、不意に視界が開け、広大な空間に出た。そこは、まるで地下に作られた秘密の植物園だった。天井からは複数の育成用ライトが吊り下げられ、薄気味悪い紫色の光が、整然と並べられたプランターを照らし出している。そして、そのプランターに植えられていたのは、紛れもなく夜香花だった。白い花弁が妖艶に開き、濃厚な甘い香りを周囲に撒き散らしている。


息を詰めて周囲を見渡すと、空間の隅に、作業台のようなものと、いくつかの薬品瓶、そして、白い塗料の入った容器が置かれているのが見えた。おそらく、ここで落書きの塗料が作られているのだろう。


その時、空間の奥から、複数の人間の話し声が聞こえてきた。私は慌てて近くの機材の影に身を隠す。声の主は二人。男と、やや甲高い女の声だ。


「……次の『設置』場所は、あの古い神社の跡地でどうかしら。あそこは『気』の通り道になっていると、先生も仰っていたわ」

「ああ、だが、最近嗅ぎ回っているネズミがいるらしい。例のカードで大人しくなればいいが……」

「もし邪魔をするようなら、排除するまでよ。我々の『計画』のためだもの」


計画。やはり、彼らには明確な目的がある。そして、「先生」と呼ばれる指導者の存在も示唆された。さらに、彼らは私の動きに気づいている。


私は息を殺し、彼らが去るのを待った。足音が遠ざかり、再び静寂が訪れる。慎重に周囲を確認し、作業台に近づいた。塗料の容器を手に取り、中身を少量、持参したサンプル管に移す。そして、一枚の夜香花の花弁を摘み取り、それも慎重にケースに収めた。


これ以上の深入りは危険だ。私は来た道を引き返し、地上への脱出を試みた。


防空壕の出口が見えてきた、その時。


背後から、冷たい声が投げかけられた。


「そこで何をしている?」


振り返ると、暗闇の中に、黒いフードを目深にかぶった人影が立っていた。手には、鈍い光を放つ金属製の何かを握っている。おそらく、スタンガンか、あるいはそれ以上の武器。


まずい。見つかった。

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