第四章 地下迷宮の鬼ごっこと黒い羽根

「見ない顔だな。こんな鼠の巣で、何を漁っている?」


フードの奥から響いたのは、意外にも若い男の声だった。しかし、その声色には年齢にそぐわない冷酷さが滲んでいる。手にした金属製の物体は、やはりスタンガンだった。それも、かなり強力なタイプと見える。


絶体絶命。脳裏にその四文字が浮かんだが、不思議と焦りはなかった。むしろ、こういう状況の方が思考は冴え渡る。


「ただの夜間散歩ですよ。少々、道に迷いまして」

「散歩、ねえ。こんな場所で、そんな装備をしてか?」男は、私のガスマスクや懐中電灯を顎で示した。「お前、例の“ネズミ”だろう」


やはり、私のことは完全に把握されている。とぼけても無駄か。


「ネズミとは心外ですね。私はただ、好奇心が少々強いだけです。あなた方がここで何を育て、何を作っているのか、少し興味が湧いただけですよ」

「その好奇心が、お前の命取りになる」


男がスタンガンを構え、一歩踏み出す。その瞬間、私は懐から小さなガラス瓶を取り出し、足元に叩きつけた。パン、という乾いた音と共に、白い煙が勢いよく噴き上がる。硫化アンモニウムと発煙剤を混ぜた、即席の目くらましだ。「楽園」では、脱走者を捕える訓練で嫌というほど使わされた。


「ぐっ……!」


男が思わず顔をしかめ、後退る。その隙に、私は身を翻して走り出した。背後から怒声と足音が迫ってくる。


「待て、このアマ!」


地下通路は、まさに迷宮だった。同じような景色が続き、方向感覚が狂いそうになる。しかし、先ほど奥へ進む際に、壁の落書きの形状や、床に落ちている瓦礫の特徴を記憶しておいたのが幸いした。それを頼りに、出口へと続く最短ルートをひた走る。


時折、後ろを振り返ると、懐中電灯の光が迫ってくるのが見えた。男は土地勘があるのか、あるいは仲間と連絡を取り合っているのか、思ったよりも早く追いついてくる。


通路の分岐点に差し掛かった時、私は一瞬立ち止まり、壁の亀裂に先ほど採取した夜香花の花弁の一枚を挟み込んだ。そして、わざと足音を立てて、片方の通路へと駆け込む。


すぐに、男がその分岐点に到達した気配がした。


「……こっちか!」


足音が、私が選ばなかった方の通路へ向かって遠ざかっていく。夜香花の強い香りに引き寄せられたのだろう。あの花弁には、ごく微量だが、ある種の昆虫を誘引するフェロモンに似た成分も含まれている。人間に対しても、ある程度の方向指示くらいにはなるはずだ。


まんまと罠にかかってくれたようだ。私は息を潜めて数秒待ち、静かに反対側の通路を進み始めた。やがて、地上へと続く微かな光が見えてくる。


防空壕から転がり出ると、むっとするような湿気と、生暖かい夜風が身体を包んだ。背後を振り返るが、追ってくる気配はない。どうやら、撒くことには成功したようだ。


アパートへの帰り道、私は入手した塗料のサンプルと夜香花の花弁を握りしめながら、頭の中で情報を整理していた。


彼らは「計画」と称して、この街に夜香花を原料とした塗料で落書きを「設置」している。その場所は、「気」の通り道とされる場所。そして、組織には「先生」と呼ばれる指導者がいる。


「気」の通り道とは、いわゆる龍脈のようなものだろうか。もしそうなら、彼らは風水や何らかのオカルト的な思想に基づいて行動している可能性がある。だが、それだけではない気がする。あの落書きの図形、そして夜香花の精神作用。それらは、もっと直接的に、人間の精神や、あるいはこの街そのものに影響を与えようとしているのではないか。


アパートの自室に戻り、ドアを開けた瞬間、私は凍りついた。


部屋の中が、荒らされている。


と言っても、金品が盗まれたわけではない。本棚の本が数冊床に落ち、机の上の書類が乱雑に散らばっている程度だ。しかし、それは明らかに、誰かが侵入した形跡だった。


私は慎重に室内を見回し、窓が開いていないか、どこかに盗聴器のようなものが仕掛けられていないかを確認する。幸い、それらしいものは見当たらない。だが、机の上に、見慣れないものが一つ置かれていた。


それは、一枚の黒い羽根だった。


カラスの羽根だろうか。しかし、それにしては妙に艶があり、どこか人工的な質感も感じられる。そして、その羽根には、あの甘ったるい、夜香花の香りが微かに染み付いていた。


これは、新たな警告か。それとも、彼らの「印」のようなものか。


私はその羽根をピンセットで摘み上げ、ビニール袋に入れた。そして、盗み聞きした「次の設置場所」――古い神社の跡地――について、記憶を辿る。この街の歴史を記した古書の中に、確かそれらしい記述があったはずだ。


もはや、受けて立つしかない。彼らが何を企んでいるにせよ、それを白日の下に晒し出す。私の知的好奇心は、既に危険水域を振り切っていた。


私は壁の市街地図に目をやり、赤いピンを一つ、新たな場所に突き立てた。

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