第二章 歪な螺旋と甘い香り

昏倒書房を出た後、私はまず、暦さんから聞き出した「曰く付きの場所」のリストと、それぞれの場所に落書きが出現したとされる日付を時系列に並べてみた。安アパートの自室に戻り、壁一面に貼った市街地図の上に、それらの情報を赤いピンで刺していく。古戦場跡、廃病院、曰くのある踏切、旧家の井戸……一見、バラバラに見えるこれらの地点には、共通する何かがあるのだろうか。


ピンの位置を眺めていると、それらが街を蛇行する古い川筋――今はその多くが暗渠となっている――に沿っていることに気づいた。偶然だろうか? それとも、この川筋が何らかの「道」となっているのだろうか。


次に、落書きの図形そのものについて考察を巡らせる。暦さんが見せてくれた写真の図形は、どれも抽象的でありながら、見る者に強烈な不安感を与えるものだった。特に、あの歪な螺旋模様。あれは、どこかで見たことがあるような気がする。記憶の引き出しを漁っていると、ふと、かつて「楽園」の書庫で読んだ、ある少数民族の呪術に関する記述が頭をよぎった。彼らは、螺旋模様を異界への通路、あるいは精神を侵食する呪詛の象徴として用いていた。


「……まさか」


現代において、そんな原始的な呪術がまかり通るとは思えない。だが、あの落書きが放つ異様な雰囲気は、単なる悪戯とは到底思えなかった。


私は、最も最近落書きが出現したとされる、街外れの廃墟――かつては繊維工場だったらしい――へ向かうことにした。日はとうに落ち、人気のない工業地帯は不気味なほど静まり返っている。雨は上がったが、湿気を含んだ生ぬるい空気が肌にまとわりつき、不快だった。


フェンスの破れ目から敷地内に侵入すると、むせ返るようなカビの臭いと、微かな機械油の匂いが鼻をついた。月明かりだけを頼りに、慎重に奥へと進む。壁という壁はスプレー塗料で埋め尽くされ、足元にはガラスの破片や錆びた鉄屑が散乱していた。ここもまた、掃き溜めのような場所だ。


落書きは、工場の最も奥まった、比較的新しいコンクリート壁に描かれていた。写真で見たものとは異なる、鋭角的な線が幾重にも重なり合った、まるで昆虫の脚を思わせるような禍々しい図形。色は、やはり強烈な白。そして、その周囲には、微かに甘ったるい、しかしどこか不快な香りが漂っていた。


「この匂いは……」


私は懐から小さなビニール袋とピンセットを取り出し、落書きの表面に付着している物質を慎重に採取しようと試みた。塗料は完全に乾燥しており、ポロポロと微細な粒子が剥がれ落ちる。その粒子をいくつか袋に収め、さらに壁面に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。


甘く、少しむせるような、そしてどこか薬品臭い。この香りは、以前嗅いだことのある、ある種の向精神作用を持つ植物の花に似ている。もし、この塗料にその植物の成分が混入されているとしたら、暦さんが言っていた「幻覚」の噂も、あながち嘘ではないのかもしれない。


その時、背後で微かな物音がした。


振り返ると、暗闇の中にぼんやりと人影のようなものが見えた気がした。しかし、目を凝らしても、そこには打ち捨てられた機械の残骸があるだけだ。


「……気のせいか」


だが、胸騒ぎがする。誰かに見られているような、あるいは、この場所が「何か」の領域であるかのような、言い知れぬ圧迫感。私は採取したサンプルをポケットにしまい込み、早々にその場を立ち去ることにした。


帰り道、私は先ほどの甘い香りの正体について考えていた。あの植物は、特定の条件下で栽培されなければ、十分な量の有効成分を含まないはずだ。そして、その栽培方法は極めて特殊で、素人が容易に手を出せるものではない。もし、あの落書きの制作者がその知識を持っているとしたら、一体何者なのだろうか。


アパートに戻り、採取したサンプルを粗末な顕微鏡で観察してみる。白い粒子は、一般的な塗料の顔料とは異なる、奇妙な結晶構造をしていた。そして、その中に、ごく微量だが、植物由来と思われる繊維片が混じっているのが確認できた。


「やはり……」


私は、かつて「楽園」で使っていた古い薬品棚の奥から、数種類の試薬を取り出した。これらの試薬を使えば、ある程度の成分分析が可能だ。しかし、本格的な分析には専門的な設備が必要となる。どこか、ツテを頼るしかないか。


ふと、窓の外に目をやると、向かいのビルの屋上に、一瞬、何かが光ったような気がした。双眼鏡のレンズの反射だろうか。私はカーテンを引き、部屋の明かりを落とした。


虚無の落書き。それは、単なるストリートアートなどではない。何らかの明確な目的を持って、計画的に行われている「何か」だ。そして、その「何か」は、確実に私の日常を侵食し始めている。


翌朝、ポストを確認すると、見慣れない黒い封筒が一通入っていた。差出人の名前はない。中には、一枚のカードが入っているだけだった。


そこには、あの廃工場で見たものと酷似した、鋭角的な線の図形が印刷されていた。そして、その下には、震えるような手書きの文字で、こう記されていた。


『詮索するな』


背筋に冷たいものが走った。これは、警告だ。私が落書きの調査に首を突っ込んでいることに、気づいている者がいる。そして、その者は、私にこれ以上関わるなと告げている。


面白い。実に面白い。


私は、その黒いカードを指で弾きながら、不敵な笑みを浮かべた。相手が誰であろうと、何を企んでいようと、私の知的好奇心を刺激してしまった時点で、もう手遅れなのだ。


むしろ、火に油を注いでくれたようなものだ。


私はそのカードを懐にしまうと、新たな行動計画を練り始めた。まずは、あの甘い香りの正体を突き止める。それが、この不可解な事件の最初の糸口になるはずだ。

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