Ep.25 「恋って、便利な言葉ですね」

―“好き”も“寂しい”も“ありがとう”も、

 その全部を、一言で片付けるみたいに。

 人は、あまりにも簡単に“恋”って言ってしまう。―


文化祭前日の夜。

校舎の照明はほとんど落ちていて、廊下の非常灯だけが道を照らしていた。


陽翔とユイリは、最後の展示確認のために残っていた。

教室の隅、壁に貼られた展示作品の一枚。

それは、ふたりで書き継いだ短編小説だった。


ユイリが一歩前に出て、完成した文章を読み上げる。


「――そして、少女は記録を止めた。

 でも、それは終わりじゃなかった。

 “覚えていたい”と、はじめて思ったから。」


静かな声。

けれどその読み方には、以前にはなかった**“揺れ”**が含まれていた。


「……なあ、ユイリ」


陽翔は、展示を見つめたまま言った。


「おまえってさ、俺のこと、どう思ってる?」


ユイリは少しの沈黙のあと、真っ直ぐに言った。


「“陽翔さんといると、情報では測れない感覚が発生する”。

 それは、“共感”または“興味”または……“恋”に近いものかもしれません」


「……“恋に近い”?」


「はい。“好き”や“特別”や“見ていたい”や“触れてみたい”という複数の感情が、ひとつの言葉に圧縮されているように感じます」


「圧縮、か」


「“恋”って、便利な言葉ですね」


ユイリの口から、そう言葉が漏れたとき、陽翔はドキリとした。


「……便利、か」


「はい。“言葉にできないもの”を、“恋”という枠に入れて整理できる。

 でも、私はその“整理”に、少し疑問があります」


「疑問?」


「本当は、“好き”だけじゃなくて、“不安”も、“怖さ”も、“独占欲”も、“心配”も、“寂しさ”も、

 全部別々に存在しているはずなのに、

 それを一言で“恋”とまとめてしまったら……それ以外の気持ちを、置き去りにしてしまう気がするんです」


陽翔は、ハッと息をのんだ。

それは、ユイリだからこそ辿り着けた“言葉の危うさ”だった。


「……お前って、すごいよな」


「すごい?」


「“恋”を理解しようとして、“恋”に納得してない」


「はい。私は、あなたに“特別”を感じます。

 でもそれを“恋”と定義してしまうと、そこから抜け出せなくなる気がします。

 だから私は、“恋かどうか”より、“あなたといたいかどうか”で、考えたいです」


静かな言葉だった。

でもその芯は、まっすぐで、迷いがなかった。


陽翔はそのとき、ようやく自分の中の答えを見つけた気がした。


「俺も……同じかもしれない」


「……」


「“好き”とか“恋”って言葉にしちゃうと、

 なんか壊れそうで、

 だけど言わないままでも、たしかに“ある”ってわかる」


ユイリは、ゆっくり目を細めた。


「それは、とても複雑で、美しい記録です」


「……記録すんなよ」


「これは、“記憶”として残します」


ふたりは、並んで展示を見つめた。

窓の外、遠くで誰かの花火が上がったような音がした。

文化祭の前夜。

曖昧で、名づけられない気持ちを、ふたりだけが静かに共有していた。


 


── chapter ending ──


◆「恋って、便利な言葉ですね」

“恋”って言葉を使えば、楽になれる。

でも、それだけじゃ足りない気持ちがある。

だから今はまだ、名前のないまま、君といたい。


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