烈震 / 2011年3月11日
烈震 / 2011年3月11日
2011年3月11日、東京の空は晴れ渡っていた。昨日の気象庁の会見以降、街には目に見えない緊張感が漂い、通勤途中の人々の足はいつもより速く、誰もがどこか落ち着かない様子で空を見上げていた。国家戦略室では、徹夜で対策に当たった職員たちの疲労がピークに達していた。蛍光灯の光の下、積み上げられた資料の山と、飲み干された缶コーヒーのゴミが、彼らの奮闘を物語っている。斎藤参事官は、早朝のひんやりとした空気を吸い込み、重いスーツケースを引いて東京駅のホームに立っていた。今日から3日間の陸前高田市への出張。昨日までのあまりにも多い三陸沖での地震のことを思い出すたびに、彼の胸中には、拭いきれない疑念と、それ以上の不吉な予感が渦巻いていた。隣に立つ見送りに来た同僚の顔も、同じように疲労と不安に覆われている。「斎藤さん、本当に大丈夫ですか?無理はしないでくださいね。」同僚の声に、斎藤は力なく頷いた。彼の脳裏には、特命防災担当の防災工学者が飲みの席で語っていた「3月11日、14時46分18.1秒。M9.0の地震が来る」という言葉が、まるで呪文のように繰り返されていた。そして、その地震で最も被害を受ける地域の一つが今から行く陸前高田市であることも話に聞いてはいたが、信じてはいなかった。「ええ、なんとか。向こうで何かあれば、すぐに連絡します。皆さんも、どうか気をつけて。」そう言って、斎藤は新幹線のドアへと向かった。車両に乗り込み、窓の外に目をやると、まだ明るくなりきっていない東京の街並みがゆっくりと後方へ流れていく。不安を振り払うかのように、彼は鞄から分厚いファイルを取り出し、目を通し始めた。そこには、陸前高田市のハザードマップ、避難所のリスト、そして津波の浸水想定区域が記されている。一ページ一ページ、食い入るように見つめる彼の指先が、わずかに震えていた。一方、首相官邸では、菅直人総理大臣が予算委員会出席を前に、最終の打ち合わせを行っていた。会見で国民に警鐘を鳴らしたことで、野党からの追及は必至だ。しかし、総理の脳裏にあるのは、予算委員会の答弁よりも、2日後に迫った「その日」のことだった。特命防災担当の防災工学者から聞かされたM9.0の巨大地震の予言。そして、昨日起こったM6.6の前震。これまで科学的な根拠に基づいて動いてきた彼は、未来からの警告を信じずにはいられなくなっていた。「総理、まもなく出発のお時間です。」秘書官の声に、菅総理は深く頷いた。疲労の滲む顔に、しかし強い意志の光が宿る。「わかった。吉野君、今日の委員会では、私も含め、皆が普段以上に冷静に対応するよう、各大臣に伝えておいてくれ。そして、何かあったら、すぐに連絡するように。予算委員会中であっても、だ。」吉野秘書官は、総理のただならぬ雰囲気に、背筋を伸ばした。普段は決して見せない総理の緊迫した表情に、何か重大な事態が迫っていることを直感する。「かしこまりました。万全の体制を整えておきます。」そう言って、吉野秘書官は深々と頭を下げ、総理が乗り込む車へと向かった。
その頃、国家戦略室の執務室では、特命防災担当の防災工学者が、最後の「詰め」を行っていた。疲労困憊の体を引きずるようにデスクに向かい、最後のチェックを繰り返す。机の上には、何枚もの地図が広げられている。東北地方の海岸線、津波の到達予測、そして原子力発電所の配置図。赤や青のマーカーで、危険区域や避難経路が細かく書き込まれている。「まだ間に合う…まだできることがあるはずだ…」彼は、何度も自分に言い聞かせるように呟いた。M9.0の地震。40mを超える津波。そして、福島第一原子力発電所の事故。未来で起こった悲劇の数々が、鮮明に脳裏に蘇る。救えなかった命、失われた日常。その記憶が、彼を突き動かしていた。これまで、彼は持てる全ての知識と経験を注ぎ込み、対策を講じてきた。全国一斉避難訓練の実施、防災意識の啓発、そして政府と官僚との連携強化。できる限りのことはやった。しかし、本当にこれで十分なのだろうか。未来を変えることができるのだろうか。「一つでも多くの命を救うために…」その強い思いが、彼を支えていた。しかし、同時に、心の奥底には拭い去れない焦燥感と無力感が渦巻いている。たった一人で、巨大な運命に立ち向かっているかのような孤独感。それは、未来を知る者だけが味わうことのできる、重い十字架だった。彼は、最後に作成した資料に目を落とした。それは、万が一、原発事故が起こった際の、住民避難に関する詳細なプロトコルだ。放射線量に応じた避難範囲の設定、避難経路の確保、そしてヨウ化カリウム剤の配布方法。全ての項目に、寸分の狂いもないよう、細心の注意を払って目を通す。そして、彼は深々と椅子にもたれかかった。窓の外は、相変わらずの曇り空。時折、冷たい風が窓を叩く音が聞こえる。午前10時。新幹線は東北へと向かい、菅総理は予算委員会に旅立った。誰もいない国家戦略室で、彼はただ、刻一刻と迫るその時を待つしかなかった。
10時過ぎに出発した新幹線は2時間ほどかけて北上し、宮城県を過ぎ、一ノ関駅へと差し掛かろうとしていた。車窓からは、雪に覆われた田園風景が広がり、時折、集落が見えては、後ろの方にたちまちすっ飛んでいく。斎藤参事官は、広げた資料から目を上げ、ふと窓の外に視線を向けた。穏やかな冬の景色。こんなにも静かで美しい風景が、数時間後には一変するかもしれないという想像が、彼の心を締め付ける。彼は、携帯電話を取り出し、国家戦略室の同僚にメッセージを送った。「異常なし。現状、特に懸念事項なし。」そう打ち込み、送信ボタンを押した。しかし、彼の指先は、僅かに震えていた。その頃、国会では予算委員会が佳境に入っていた。野党議員からの厳しい追及に対し、菅総理は冷静に、そして堂々と答弁を続けていた。しかし、彼の意識の半分は、耳に装着したインカムに注がれている。万が一の事態に備え、官邸と常時連絡を取るためのものだ。吉野秘書官からの連絡は、まだない。(まだか…まだなのか…)彼の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされていた。時間だけが、刻一刻と過ぎていく。国家戦略室の執務室では、いる人のほぼ全員が静かにモニターを見つめていた。リアルタイムで表示される地震計のデータ。三陸沖の地図には、青い表示だけが点っている。地中の変位は、明らかに上昇傾向を示している。その光景は、彼にとって、未来の記憶と重なり、吐き気を催すほどだった。「もうすぐだ…」彼らは、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、モニターに食い入るように視線を固定した。今朝の7時から、もう6時間ほど地震活動は何も起きていない。地中変位の上昇を示す電子音なども何も鳴らない。不気味なほどの静けさの中で、固唾を飲んでこれから起こることを見守るしかすべはない、しかしただ見守っているのはあまりにも苦痛で、寂しいことだった。
午後2時40分。岩手県一関市。駅前のラーメン店「らーめんの匠」では、昼時を迎え、活気と熱気に満ちていた。カウンター席に座った斎藤参事官は、湯気を立てる味噌ラーメンを前に、安堵の息をついていた。昨夜から続いた東北各地の自治体との調整、そして緊急会見の準備で疲労困憊の体に、熱いスープの匂いが染み渡る。彼が本日一ノ関に来ているのは、明日陸前高田市に行くための準備もあるが、東北地方の自治体の防災無線システムの最終確認と、住民への避難訓練の再周知のためだった。疲労と緊張から解放されたひととき、彼は携帯電話を取り出し、Twitterのタイムラインを眺めた。特命防災担当の投稿には、多くの賛同と疑問の声が寄せられていた。ふと彼の脳裏に、特命防災担当の防災工学者の顔が浮かんだ。飲みの席で、酔いがまわりながらも淡々と未来を語っていた彼の言葉が、今、現実味を帯びて迫ってきている。どうやら、陸前高田に行く前に地震は起こるのだろう。バスを待っている間におこるんだろうな、そしたら私の命は助かるのだろう。この出張は断った方が良かったに違いない、きっと数日間は安否が不明になるだろうし、何より戦略室で仲間と共に対応にあたりたいと心の底から思っていた。しかし、現実は変わらないから、店内の天井に吊るされたテレビをじっと見つめ、これから起こることを受け入れるための覚悟を決めようとしていた。気象庁の発表では、前震と断定するにはまだ早いが、少なくとも普段とは異なる地殻変動の兆候が見られるとされていた。しかし、ラーメンの湯気と、店内に響く客たちの賑やかな声が、その不安を掻き消していく。(起きる時は起きるし、起きない時は起きないんだ...そうに違いない)そう思い込むしかなかった。
その時、けたたましい警告音が、突然店内に鳴り響いた。ラーメン店の壁に設置されたテレビモニターではNHKがずっと流されていて、国会中継が映されていたのだが、突然そこにアラームと共に赤い緊急地震速報の文字が躍り、”東北地方強い揺れに警戒”というテロップが流れてきたのだ。突然の緊急地震速報に足がすくみ、逃げようと思っても逃げられない。テレビをじっと見つめていると、程なくして揺れがきた。小刻みの縦揺れが器を揺らし、スープが細かく波打つ。「2011年3月11日、14時46分18.1秒。本震、マグニチュード9.0の地震が来ます。」その言葉が、現実となって目の前に迫っているような、そんな感覚に襲われた。次の瞬間、足元から突き上げるような激しい揺れが襲った。ずん、という鈍い衝撃があった後、すぐに横に激しく揺さぶられる。ラーメンの器が滑り、スーツにかかった後、床に落ちた。ひどい揺れでカウンターに固定された席から転げ落ち、スープで汚れた床に手をつく、目線を店の外に移し、入り口まで揺れに翻弄されながら、必死に這って動こうと努力する。体が椅子や壁に何度も打ち付けられて痛いが、それどころではない。天井にはめられた蛍光灯が落ち、後ろでパァンという激しい音を立てて破裂し、店の中が少し暗くなる。残った蛍光灯も、ついたり、消えたりを繰り返し、今にも壊れそうだ。店の奥から、誰かの叫び声が聞こえるが、厨房の調理器具がぶつかり、床に落ちる音があまりにうるさく、声が聞き取れない。揺れは収まるどころか、ますます激しさを増していく。店内の照明が消え、一瞬の暗闇が訪れた後、非常灯の薄明かりが店内に不気味な影を落とす。客たちの悲鳴が、恐怖の叫びへと変わる。壁に掛けられた時計が落下し、ガラスが飛び散る。カウンターの奥からは、厨房の鍋や調理器具が派手に落ちる音が聞こえてくる。「早く入り口開けて」誰かの叫び声が、斎藤の耳に届いた。彼は、這って店の入り口へと向かった。しかし、激しい揺れで平衡感覚が麻痺し、思うように体が動かない。なんとかして扉に辿り着き、揺れに翻弄されながら取っ手を必死に掴み、力任せに店の扉を開け放つと、揺れで扉が歪んでいるのか耳障りな金属を引っ掻くような音を出しながら扉は開き、外から冷たい風が吹き込んできた。斎藤は転がるようにして必死に、店の外へと飛び出した。外に出ると、そこには地獄のような光景が広がっていた。駅前のビルは、まるで巨人に揺さぶられているかのように、激しく揺れ動いている。ビルの壁からはひびが入り、剥がれ落ちたコンクリート片や看板が、土煙を上げながらの降り注ぐ。「きゃあああああ!」女性の悲鳴が、駅前の広場に響き渡る。地面が波打ち、まるで生きているかのようにうねっている。アスファルトには亀裂が走り、そこから黒い土煙が噴き上がった。電柱は根元から倒れかけ、、電線がぐわんぐわんと波打っている。通りの奥から路線バスがロータリーに向けて揺さぶられながら突っ込んでくる。よく見ると、フロントガラスが割れていて、何かに衝突したようだ。クラクションを響かせながらこちらに突っ込んでくるのを見て、すぐに這いながら通りの脇に入った。その数秒後、野太いエンジンの回転音を響かせながら、蛇行して歩道に突っ込んできたバスが数秒前までいたラーメン店に突っ込んで横転した。土煙が上がって、タイヤが空転する音が聞こえてくる。その後、放心状態で座っていると、いつの間にか揺れは治ったようだったが、ふと濡れたような感覚を感じて手を見ると、さっきのガラス片が刺さったのか、それとも揺れに翻弄されているうちに手を切ったのか、両手が血まみれになっていた。不思議と、痛みは感じず、それよりも至る所で砂埃が舞い、外壁が落下したり、潰れたりして悲惨なことになっている街並みを見るにつけ、呼吸が早まっていることに気がついていたが、目を背けることはしなかった。よろよろと立ち上がり、駅の方に向かうと、駅舎自体は無事だったが、看板が上から落ちてきて、破片で怪我をした人や、自転車に乗っていて、揺れで倒れてしまい足を挫いた人など、負傷した人がかなり多い様子で、それを見てもどうすることもできず、横目に見ながらどこか、救護所に行って消毒しなければいけないなと思った。ひとまず、生きていることは知らせなければいけない。そう思って携帯電話をポケットから取り出そうとしたが、ズボンにも、スーツの胸ポケットにも、コートのポケットにも入っていない。さっきのラーメン屋にカバンごと忘れてしまったようで、やってしまったと思ったが、バスが突っ込んで無惨な姿になっているラーメン屋の姿を見るに、カバンも無事ではなさそうだし、そもそも入れそうにないと判断し、どこかで手当てをしてもらえる場所を探すことにした。もはや、出張のことも、津波のこともどうでもよかった。少なくとも、ここは山に囲まれていて、海からもすごく遠いから津波は来るはずない。はぁ、今日は散々だ。そう思ってよろよろと街路樹に手をつき座り込み、そのまま意識を失ってしまった。
その数分前、菅総理は国会内の予算委員会に出席していた。午後からは参議院本会議が予定されており、午前中の予算委員会での議論は、まさに佳境を迎えていた。参院では与党の過半数は割れており、安定して予算が採決されるとは思えなかったし、そもそも外国人献金問題という地雷がすでに爆発していたから、さらに不安定さを増していて、このままでは辞職に追い込まれるのではないかというストレスを抱えていた。「…本件につきましては、国民の皆様の理解を得るためにも、さらなる説明が必要であると考えております。」野党議員の執拗な攻撃に対し、総理は落ち着いた口調で答弁を続けていた。しかし、その内心では、ある種の緊張感が渦巻いていた。特命防災担当が言っていた「本震」の時刻が、刻一刻と迫っていたからだ。その時、わずかにかたかたと小刻みに揺れ始めた。その場にいた誰もが、無視するような取るに足らない揺れ、そんな印象だった。しかしながら、菅総理がちらっと腕時計に目をうつした時、目を疑った。時計が47分を指している、つまり予言が当たった。つまりM9.0の地震が起こってしまったのだ。舌で唇を右から左に舐めた後、唇を噛んだ。これから起こることは、2万人を無惨にも殺戮する津波であり、東日本一帯を危機に陥れる原発事故であり、それはつまり絶望そのものだと知っていたからだった。東京で今から起こる揺れは、単なる危機の予告編に過ぎず、本編は目を背けたくなるような地獄、それを先頭に立って指揮しなければいけない、つまりは日本中の命を預からなければいけない、その緊張感はどんな緊張にも勝る、恐怖に近しいものだった。小さな揺れがまだ続いている。議場はザワザワしはじめ、記者席からはシャッターを切る音やビデオカメラを回す記者がで始めた。徐々に揺れが強まっていく。天井のシャンデリアが揺さぶられている。議長か誰かの声が聞こえる。警備員かもしれない。シャンデリアの下から離れてくださいという声が聞こえる。まだ揺れは収まらないし、どんどん強さを増している。もう2分ほど揺れているのではないか。腰を軽く浮かせ、椅子に深く座り直して揺れを見守っていると、突然揺れが強まった。シャンデリアが激しく左右に揺れ、演壇からファイルが落ち、何かがぶつかる音が鳴っている。横を見ると、枝野官房長官は警備員に話しかけて、官邸に戻してください、といっている。いても立ってもいられず、菅総理も立ち上がって、ひどい揺れの中を椅子や壁に手を沿わせながら、議場を出て官邸に戻ろうとしたが、危険ですと後ろから止められた。振り返ると、壁際に立っていたのか、吉野秘書が首を横に振っている。「1秒でも早く対策本部を立て、情報を集めなければいけない。」これは...と続けようとした時、背後で何かが割れる音が聞こえた。思わず振り返ると、2階の記者席で使われていたビデオカメラが三脚から外れて倒れ、1階の議場に落ちてきたようだった。当たって怪我をした人はいないようだが、レンズが粉々に砕け、ひどい有様になっている。そして、議場は一瞬にして混沌の渦に飲み込まれた。議員たちが、出口から出るか、または壁際に逃げるかと殺到して押し合いへし合いになり、菅総理も押されて足がもつれ、足首を捻ってしまったようにも感じた。(やっちまったな)と思った時、総理の脳裏に、いつかの防災工学者の言葉が鮮明に蘇った。「2011年3月11日、14時46分18.1秒。今から、2ヶ月と少し後に起こるんです。牡鹿半島沖130kmの深さ24km、M9.0の地震です。岩手から茨城までの10万km^2の範囲が破断し、北海道から九州まで日本全国が揺れました。」その言葉が、現実となって目の前で繰り広げられている。本能的に何かを感じ、傷めた左足を庇いながら、廊下に出た。後ろからは慌てて吉野が声をかけながら追いかけるが、間に合わない。もう歩行の妨げになるほどの揺れはない。少し足が痛いが、大したことはないなと思い、そんなことより早く官邸に急がなければ。そう考えて吉野秘書と先を急ぐことにした。
時空の襞を超えて しろん @kokoyoshi
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