衝撃 / 2011年3月10日
衝撃 / 2011年3月10日
3月10日に日付はかわり、未明の官邸では静寂に包まれた廊下を、足早に菅総理の秘書官、吉野が足音を立てないように歩いていた。手には分厚いファイルが握られている。黄ばみがかった色の照明で満たされた廊下をすすみ、秘書官室の扉を開けると、そこには棚に入りきらなかった既に明日の会見資料とメディアへの説明資料が床にまで雑多に積み重ねられていて、机の上には飲みかけのコーヒーカップ、それも時間が経ってしまってカップについた結露が机に垂れてほんの小さな水溜りができているようなもの、それと、貰い物のお菓子の包みのビニールやアルミのゴミが残されていて、それを手で握ってゴミ箱に捨てながら壁にかけられた時計に目をやると午前2時を回っていた。吉野はキャスター付きの椅子をできるだけ音を立てないように慎重に引くと、静かにファイルを開いた。そこには3月9日、つまり昨日に震度5弱の地震が三陸沖で起きて以降、M4~6の地震が数時間感覚で起き続けていることや各観測点の加速度や変位といったデータが表にまとめられていたが、ざっと見た限りではその地震自体の震度は2や3と取るに足らないものだったし、PGA(観測点最大加速度)やGAL(加速速度)といった専門用語は吉野にはよくわからなかったから、朝になったら菅総理に見てもらうしかないな、そのためにはある程度重要そうな部分だけ切り取ってまとめなければいけないなと思い、PCの電源を入れてオフィスソフトを起動することにした。電源ボタンを押すと短いガガッという音が鳴って、その後にブーンという微かなファンの音が響いてきた。静まり返った部屋にPCが起動する音だけが聞こえ、その音に耳を澄ませるように椅子の背もたれに体を預けて目を瞑ると、部屋の外からこんこんという足音が聞こえる気がした。疲れているから、気のせいだと思って無視していると段々とその足音は近づいてくるようで、革靴の硬い靴底がカーペットに当たる音が廊下から聞こえてくる。あぁ、警備員がこんな時間にも見回りをしているんだな、普段は気にも留めないような些細なことにも敏感になっているということは私は疲れているんだ、そう思ってモニターに目を向けようとした時、ドアをノックする音が聞こえた。こんな時間に秘書官室に閉じこもっていることを不審に思った警備員が声をかけにきたのかなと思って、どうぞと返事をするとドアを開けて入ってきたのは菅総理だった。心なしか白髪が増え、目の下に隈があるように見えるな、と思いつつこんな時間にどうされました?と声をかけると「昨日の東北の地震のファイルを見ようとしたら、原本を君が持って行ったというから、ならここにいるだろうなと思って」と言われ、原本を資料室から持ち去ったことを咎められているのかと思って咎められているのかと思って申し訳なさそうに頭を下げると、それに対して反応せずに言葉を続けた。数ヶ月前にとある防災工学者から聞かされた大地震の予言の話、そしてその日が3月11日であること、そして3月9日に起こる前震も予言し、しかもその規模を的中させたこと、つまり明日M9.0の地震が起こるということ。その話を一通りした後に、またしても反応を待たず「これ以上の地震活動の活発化も視野に入れ、今日中に緊急会見を開くべきだと主張したはいいものの、気象庁はすでに昨日『今後1週間は同程度の地震に注意』という発表をしていたから、なぜ繰り返す必要があるのか、しかも管轄外の政府がやるのかと、既に問い合わせが殺到しているし、国民の間に、過度な不安を煽るのではないかという懸念も出ている。」と菅総理は眉間の皺をさらに深くして苦い顔を浮かべて言った。国民の不安を煽ることは避けたい。しかし、最悪の事態を想定すれば、あらゆる警告を出す必要がある。そのジレンマに、総理は苦悩していた。吉野は「官房長官には、既に連絡は入っているのですか?私は今その話を聞いたばかりでさっぱりわからないですが。」とあくまで冷静に述べると「もちろん。枝野さんも対策本部で対応に当たってはいる。しかし、各省庁の官僚からは、まだM9.0の地震が現実的に起こるとは考えにくいという意見が多く、今回の緊急会見についても、懐疑的な声が上がっている。官邸主導の政治だからといって突っぱねれば、後々溝が深くなってしまうし、どうしたものか。」国の危機だというのに縄張り争いに励んでいる官僚たちに呆れているのか、怒っているのか、その疲れた表情からは読めなかった。菅総理の言葉の裏に隠された意図はなんだろうと吉野は思考を巡らせていた。”予定調和と妥協に塗れた”官僚たちの反応は、確かに予想通りだった。彼らは過去のデータと前例を重んじる。M9.0という未曾有の規模の地震は、彼らの常識を遥かに超えていたし、根拠のないことをやって失敗すれば責任を押し付けられる。出世コースから外れることを恐れる彼らが、それを不安視して忌避するのは当たり前とも思える反応だった。吉野は自分に言い聞かせるように「彼らにとって、これまでの常識は、もはや通用しないのは事実です、しかし、それを理解させるには、まだ時間が足りない…」と呟いたが、少なくともあと1日で変わるほどやわなものでない、とまでは言わなかった。何も言わずに頷いた菅総理は、立ち上がり、窓の外の漆黒の闇を見つめた。東京の街は、深い眠りについている。しかし、その地下では、目に見えない巨大な力がうごめいて、赤黒い舌をちらつかせて国民の命を刈り取ろうとしているのだと思うと、どうにも落ち着かず、得体の知れぬ恐怖を感じて目を細めた。それから「吉野君、今日の会見では、国民の皆さんに、正直に話そう。地震のメカニズム、そして最悪の事態。すべてを包み隠さず話す。そして、避難の重要性を、改めて強く訴えるんだ。」と柔らかい口調で語りかけた。菅総理はマスコミからはイラ菅と呼ばれているが、そんな怒りっぽくはないし、物腰柔らかな気前の良い人だというのを吉野は知っていた。だが吉野は、一瞬戸惑った表情を見せた。それは菅総理の口調のためではなく、そのような詳細な情報を、一国の総理が自ら国民に語りかけることは、前例がなかったからだ。しかし、総理の目に宿る強い決意を見て、吉野は深く頭を下げて「承知いたしました。明日の10時までに会見資料を修正し、メディアへの説明準備を進めます。」そうして吉野がなぜか秘書官室を足早に出ていくと、菅総理は秘書官室のデスクの上に忘れられた資料に目を落とした。そこには、特命防災担当が作成した、津波のシミュレーション図や原発事故の被害図、それから震度推移などの詳細な被害予測が広げられていた。最大遡上高41m、そして死者2万人以上。その数字が、総理の脳裏に焼き付いて離れない。「頼むぞ、君…」総理の呟きは、深夜の秘書官室に虚しく響き渡った。
少し時間が過ぎた午前6時、国家戦略室では数人の職員がデスクに向かっていた。斎藤参事官は、震度モニターから送られてくるリアルタイムの地震情報を、食い入るように見つめていた。画面には、三陸沖の地図が広がり、地中加速度の増加を示す赤や黄色、そしてオレンジ色の点が、秒単位で増え続けている。「やはり、おかしい…」斎藤は、独り言のように呟いた。昨日までは、ほとんど話題に上ることもなかった三陸沖の地震が、昨日の地震を皮切りにこれほど頻発するとは、異常としか言いようがなかった。彼の中に、微かな不安が湧き上がる。「斎藤さん、総理からの指示で、今日の会見で、地震に関する詳細な情報を国民に開示することになったそうです。避難訓練の重要性も、改めて強調するようにと。さっき総理秘書の、えーと、吉田、違う、吉野さんがここに来て伝えられたんです。」隣のデスクに座っていた若手官僚が、疲れた表情で報告した。斎藤は、驚きに目を見開いた。「総理が自ら、そこまで踏み込むのか…」これまでの常識では考えられない総理の決断に、斎藤は、特命防災担当の防災工学者の言葉を思い出した。あの時、彼は「菅総理は、やる人間です。爆発寸前の原発にだって行くような人間です」と、力強く言い切っていた。その言葉が、今、斎藤の脳裏に鮮やかに蘇った。「しかし、官僚からは反発も予想されます。M9.0の地震は、学界の常識を超えていますし、過度な不安を煽るだけだと」若手官僚の言葉に、斎藤は深く頷いた。彼の懸念は、もっともだった。しかし、斎藤は既にこの2ヶ月間、特命防災担当として、彼が語る未来のビジョンに触れ続けていた。そして、何よりも、昨日、前震と酷似した地震が起こった事実。斎藤の心の中には、確かな変化が生まれていた。「いいか、彼らの言うことはもっともだ。だが、私たちは、最悪の事態を想定しなければならない。もし、彼の言うことが本当だったら…」斎藤は、そこまで言って言葉を切った。その言葉の続きを、彼は口にすることができなかった。もし、M9.0の地震が本当に起こったら。もし、40mを超える津波が、三陸沿岸を襲ったら。もし、福島第一原発が、制御不能になったら。その想像は、あまりにも恐ろしすぎた。斎藤は、立ち上がり、部屋の隅にあるホワイトボードに目をやった。そこには、特命防災担当が書いた「備えあれば憂いなし」という言葉が、大きく記されていた。そしてその下には、全国一斉避難訓練の成果と課題が、細かく書き込まれている。「私たちにできることは、全てやる。それしかない」斎藤は、心の中で固く誓った。その時、モニターから地震を知らせる警告音が流れ出した。日本中に張り巡らされた地震計は普段は揺れを観測しない”青色”の点だから、いつもの日本地図は青一色に染まっている。それが東北太平洋沖が微弱な揺れを観測していることを知らせる黄緑色に染まり、揺れていることを示す黄色に変わり、それがオレンジ、赤とどんどん濃くなっていく、つまり大きく揺れていることを示す表示にどんどん変わっていった。緊急地震速報(予報)は第一報、第二報、第三報...と数秒おきに最新の情報に変わっていく。画面にはM6.0
、最大震度5-とかかれている。心拍が速くなり、鼓動がどくどくと体を伝わるのをはっきりと感じられる。膝が震え、寒さからか、緊張からか、腕には鳥肌が立ち、うぶ毛が逆立つのがわかる。最終的に”最終報”が発表された。M6.6、震度4。東京都も震度2を観測するほどの規模で、津波は起こらなかったものの、今そこにある危機に立ち向かわなければいけないということをはっきりと感じた。
午前11時、首相官邸の記者会見室は、既に多くの報道陣で埋め尽くされていた。テレビカメラの赤いランプが煌々と輝き、無数のフラッシュが瞬く。張り詰めた緊張感が、部屋全体を覆っていた。定刻通り、菅直人総理大臣が会見室に入ってきた。彼の顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、その目は鋭く、強い意志を宿していた。「昨日より、三陸沖で震度1から4程度の地震が頻発しております。気象庁の分析によりますと、これらの地震は、通常の余震活動とは異なる、何らかの予兆的な動きである可能性が指摘されています。」菅総理の言葉に、記者会見室にどよめきが起こる。これまで、政府は、地震に関する詳細な情報を国民に開示することを避けてきた。しかし、今日の総理は、違っていた。「政府・官邸としては、この状況を極めて重く受け止めております。つきましては、後ほど気象庁より詳細な情報をもとに緊急記者会見が行われるものと思いますが、我々政府からもメッセージを発信します。気象庁は今後1週間程度、同程度の地震に警戒を呼びかけています。しかしながら、三陸という地域は巨大地震の発生が非常に起こりやすいとされている地域でありますから、1週間という期間でなく、いつ巨大地震が起こるかわからないということを忘れないでいただきたいと、思います。」総理の言葉に、さらに大きなざわめきが起こった。たちまち挙手を待たずに発言する報道陣があふれた。「総理!管轄外の政府が踏み込みすぎてはないですか!」「国民の不安を煽るだけではないですか!」「巨大地震は、本当に起こるのですか!」「そうなった場合の具体的な対応策はどうなのですか!」その日の午後、戦略室では、緊急の会議が開かれた。斎藤参事官は、ホワイトボードの前に立ち、今回の会見で総理が語った内容を、一つ一つ確認していく。「総理の姿勢は、これまでの政府の”それ”とは大きく異なる。我々も、その意図を汲み取り、国民の防災意識を高めるための、より具体的な行動を起こす必要がある。官邸主導だとか、官僚主導だとか、そんな縄張り争いは今はやめましょう。功績なんていらないでしょう、人の命をかけてそんなくだらないことをするのはやめましょう。」斎藤参事官の言葉に、部屋にいた全員が頷いた。ただ彼らは苦虫を噛み潰したような、というよりかは斉藤参事官を恨めしげな表情で見つめた。しかし斉藤参事官はそれを知ってか知らずか、声を張って「では、まず、国民への情報発信を強化しましょう。テレビやラジオだけでなく、インターネットやSNSも活用し、より多くの人々に防災情報を届けなければなりません。特に、若い世代や、いわゆる情報弱者と呼ばれる人々にも、確実に情報が届くように工夫する必要がある。」斎藤参事官の指示に、早くも若手官僚たちが動き出した。彼らは、TwitterやFacebookといったソーシャルメディアを活用し、防災に関する情報を積極的に発信し始めた。動画やイラストを多用し、分かりやすく、親しみやすい情報を提供することで、若い世代にも防災意識を高めてもらおうと試みた。何せ、元々発信用のアカウント自体はあったからだ。彼らからしたら文字通り、簡単な仕事だった。
その頃、戦略室トップ、つまりは唯一の”未来を知っている人”は絶望的なまでに憂鬱な気分になり、昼ごはんに食堂で食べた焼き魚定食を吐いてしまった。息が荒くなり、口の中が酸と生臭さで満たされる。その匂いで、再び吐く。無理もない、24時間後に迫っている危機はもう”確実”で、イーサン・ハントのように驚異的な力で未来を変えたり死者を減らしたりするなんていうのは夢物語だ、というのもわかっていたからだ。心のどこかで”なろう系”のように、とんとん拍子で未来を変えることができるのではないかという淡い期待感を持っていたが、それはいつの間にか打ち砕かれ、それどころか気分は重く沈み、食べたものを戻してしまうほどには、落ち込んでいた。不安、というよりかはもはや絶望で、明日が来ないことを願っていた。
夕方になって、気象庁の担当者は緊急の会見を開き、国民に注意を呼びかけた。気象庁の地震計は、三陸沖で地震と”滑り”を観測した。これまでも地震は観測されていたが、今回の地震は、これまでとは明らかに異なる揺れ方だった。地震波の解析から、震源の深さがだんだんと浅くなっていることが判明したのだ。「三陸沖で、M5.0の地震が発生しました。今後も同程度の地震が続く可能性が非常に高いですので、引き続き警戒が必要です。そして、この地震の前後、現在進行形で特殊な地中変位が観測されています。短期間のうちで巨大地震に発展する可能性があるもので、太平洋側にお住まいの方は、地震が発生したらすぐに高台に避難をできる準備をお願いします。」無論、こんな会見は許されないから、今までは一回たりとも行われなかった。万が一、地震が起こらなければオオカミ少年になってしまい、それ以降何を言っても信じてもらえなくなるリスクがあるし、もし起こったとしても、そもそも国民の恐怖を煽るということ自体が許されないからだ。それでも、官邸からの圧力か、それとも観測データの異常性からか、前例のないタイプの会見が行われた。
そして、日付は変わって当日へと突入することになる。
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