兆候 / 2011年3月9日

兆候 / 2011年3月9日


昨日降っていたみぞれは夜のうちに止んだようで、3月9日の東京は雲ひとつない晴天に恵まれた穏やかな朝を迎えていた。斉藤参事官はいつも通り朝一番で戦略室に入ると、照明のスイッチをつけて、ヒーターをつけながら、誰もいない部屋に向かって「おはようございます」と声をかけた。それから、パソコンを起動して気象庁から毎日送られてくるデータをチェックした。日本海溝周辺の海域で、わずかながら地殻変動の兆候が見られた。それは、決して大きくはない、日常レベルのごくわずかな変化だった。しかし、そのわずかな変化が彼の心をなぜかざわつかせた。しかし、その不安を杞憂だと信じ、頭の中から振り払うために目の前の資料をまとめることに集中した。そして午前10時半、特命防災担当は再び首相官邸に非公式に呼ばれた。それは他でもない二人だけの、密室での会談のためだった。「総理、3月11日が近づいています。」開口一番、そう切り出すと「ああ、わかっている。しかし私には先にやらなければいけない問題がある。」菅総理は、外国人献金問題の対応に追われている様子を見せ、疲れた表情で答えた。疲労の色が濃い総理に対して「昨日のデータですが、日本海溝周辺で、わずかながら地殻変動の兆候が見られました。ごくわずかなものですが、気になります。」日常的に起こる変動の範囲で、普段であれば話題に上るどころか目につくほどのことでもなかった。しかし、2日後に起こるであろうことを考えると気掛かりで仕方がなかった。「そうか。やはり、来るのか。」菅総理は、窓の外を見ながら、どこか寂しげに呟いた。「まだ、わかりません。この世界線では3.11は来ないかもしれません。起こるかどうかはあと1時間と...少し後にわかると思います。」そう答えた裏には、もしかしたら3.11は起きることなく終わるのではないかという微かな願いがあったし、原発事故を防ぐ手立ても津波被害を抑えることも何もできていないまま残り2日になってしまった現実から目を逸らしたい気持ちも強かった。すると少し困ったように天井に視線を泳がせてから「ああ、もちろんだ。できる限りのことはする。しかし、国民には、どう説明すればいい?君の言うことを、そのまま伝えるわけにはいかないだろう。」と申し訳なさそうに返事をしてきたから、「それは、私もわかっています。史実通り今日の11時45分にM7.3の地震が起こったとしたら、気象庁から”今後1週間、同程度の地震に注意”という定型文の警告が出ます。それに加えて政府からも特別な警告を出せばいいんじゃないでしょうか。」と返した。すると「わかった。それなら出来るし、特に何も問題ないだろう。しかしあと1時間少しでわかるというのは緊張するな。」と歯を食いしばるようにして答えが返ってきた。無理もない、日本に対して崩壊の危機をもたらすような未曾有の災害という国家の危機の予告編が始まろうとしてるのだから。その後は1時間程度、最終的な意見交換を行なった。自衛隊の出動体制や、被災地への援護や救護について。そして、原発周辺からの避難や、避難者を除染する体制やヨウ化カリウムなどの放射線障害治療薬の配備体制などを確認し続けた。思い返せばこの2ヶ月間、様々な人たちと出会ったし、一生縁がなかったであろう国家の運営にもわずかながら関わった。その人たちと3.11に立ち向かい、被害を最小限に留めることで英雄になれるし、防災学の権威としてどこかの有名な大学の教授になるかもしれない。父が作ったタイムマシンのおかげで、歴史をまるっきり良い方向にひっくり返せることにワクワクを抱いていた。思えば父は頭の悪い人間だったのだろう、しかしその頭の悪い人間を踏み台にして英雄になるということを想像すると、頬が緩んでしまう。もしかして、総理大臣になれるかもしれない。そうすれば日本は自分のものだ...。空想が止まらない中、ふと壁の時計を見上げると11時40分を指していた。あぁ、いよいよあと5分で壮大な物語が幕を開けるのか。その物語の中では人々を救って英雄になってやるんだ、バカな親父なんかと同じ犬死になってたまるか、俺は命を救ってるんだから俺が1番正しいんだ、英雄なんだ...。この2ヶ月、良い思いをし続けたことで何かが壊れてしまったようだ。父親の遺志を継ぐために、そして命を救うために行なってきたはずのことが全て独裁的で偽善で塗り固められていることに果たして周りや本人は気づいているのか、たったの一人を除いて全員が気づいていなかった。そして机に置かれた湯呑みをくるくると回して、底に残った茶葉の粉を動かして遊んでいると時計は11時45分を指した。菅総理はさっきからずっと時計の秒針を見つめて、時折ため息をついてばかりいる。木の机に置いた陶器の湯呑みがことりと音を立て、菅総理は膝の上で手を握ってから汗をズボンに染み込ませるように手を開いて腿の上に乗せた。その沈黙を破ったのはどちらでもない、突然の揺れだった。かたかたとわずかに小刻みに揺れていることに、最初は自分の勘違いかと思ったがしばらくするとゆさゆさと揺れてきて、壁にかかっている額縁が揺れで少し浮いて、そして壁に当たって、かちゃかちゃと音を立ててきた。”史実通り”に揺れが来てしまったことに緊張を隠せなかったのはどちらも同じようだった。ただ、革張りの椅子に腰掛けたまま目を見つめ合って緊張した面持ちで揺れていること、地震が来ていること、つまり危機が迫っていることを体感しているようだった。東京の揺れは震度2か3くらいで、20秒ほどしか揺れは続かなかった。震える手で部屋の隅におかれたテレビに近づき、裏にあるスイッチを押すとぷすっという音が鳴って電源が入った。ジーという音が数秒なってから画面がつくと、NHKがついて、そこには画面上のテロップで地震速報が流れていた。その時、トントントンと急いでノックをする音が聞こえ、菅総理がどうぞ、と声をかけるとドアを開けて吉野秘書が入ってきた。どうやら、地震が起きたことを執務室のテレビで見たのか、急いで会議室まで来たようだった。ただ、津波注意報で済んだことと壊滅的な揺れは観測されていないということで災害対策本部を政府として開設するほどの災害ではなさそうだということに落ち着いた。しかし、それが全く良い兆候でないことを菅総理も吉野秘書もわかっているようだった。前震で被害が小さかったことで、2日後に起こる東日本大震災の時にも油断と慢心が心のどこかに残ってしまい、それが避難の遅れと犠牲者数の増加を招いたということを事前に何度も何度も話していたからだ。数時間のうちに枝野幸男官房長官が会見を開くかもしれない、それはきっとよくある軽微な災害だと流されるかもしれない。まだ彼は知らない、東日本大震災が発生してから4日間連続で不眠不休の激務をやることになるかもしれないということを。”あのTwitterの”#枝野寝ろというハッシュタグ、そして絶望的なまでの原発事故、それがこれから起こるということへの緊張感はとどまることを知らない。そんな考えを巡らせていると菅総理に声をかけられた、どうやら秘書と官邸に戻って情報収集や記者会見の準備をするらしい。急いで会議室を出ると去り際、総理に言葉をかけられた。「人生は、選択の連続だ。この出会いはただの不幸なめぐりあわせではない。私と、君の宿命であって必然だ。...あと2日、悔いがないようにやろう。」会議室を離れ、戦略室に戻ると、慌ただしく電話をかけたり、FAXをとったり、混乱状態になっていて、誰からも挨拶すらされなかった。机に戻ると、机がなかった。というのは見間違えで、電話が足りなくなって自分のデスクに置かれていた電話が使われていただけだった。座って電話をとっていたのは斉藤参事官で、詳しい内容はわからないが、付箋に走り書きしているメモを見るには、震源地に近い地域の自治体の関係者と会話をしているようだった。すぐさっき、菅総理に言われた「運命」が頭の中でぐるぐるとずっと流れ続けている。手持ち無沙汰になり、壁の方でもたれて電話が終わるのを待っていると、5分ほどして電話は終わったようだった。ぼんやりしていると、斉藤参事官が”勝手にデスクに座ってしまって申し訳ないです、電話が足りてなかったので”と苦笑まじりに話しかけてきた。「いや、何も問題ないよ、それで、どうなった?」と質問をすると、だるそうな仕草をしながら「急すぎる話なんですが、11日から3日間、視察に行くことになりまして。場所は、えーと、陸前高田市ですね。」と返された。その瞬間、眠気が一気に冷め、鳥肌が立ち、そして何かが込み上げて来た。11日、つまりはXデーに、最も被害が深刻だった地域の一つである陸前高田市に出張に行く、それが何を意味しているのかは火を見るより明らかだったからだ。言葉が出ず、頷くことしかできなかった。そして、小走りでトイレの洗面台に向かい、えずいた。またしても、菅総理の言葉が頭の中で流れた。「人生は...不幸なめぐりあわせではない...必然だ...」その言葉が、ただただ恨めしかった。その後の仕事が全く手につかなかったのはいうまでもないし、ほとんど記憶に残っていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る