03_梅雨のイズミさん1

 窓の外には鉛色なまりいろの雲が厚く張り詰め、細い筋を描きながら雨が降っていた。

 僕は午前中から起きだして部屋を掃除していた。辺りに脱ぎ散らかしていたシャツやジーンズ、靴下にパンツをまとめて近くのコインランドリーで洗濯し、衣装ケースにしまった。床を埋め尽くすほどの量になったペットボトルの大群は四十五リットルのごみ袋二つになんとか収め、捨てた。辺りの物を片付けて、床を掃除しようとしたが、僕の部屋には掃除機が無かったので粘着性のローラーでひたすらカーペットやフローリングをコロコロと掃除した。粘着面は直ぐにほこりや髪の毛、何処どこから入り込んだのか分からない砂や米粒でいっぱいになった。いくら掃除しても汚れが残っているような気がして、僕はマットレスまでひっくり返して念入りに掃除していた。

 今夜、イズミさんが訪ねてくるのだった。数日前、僕は意を決してイズミさんの部屋の郵便受けに一枚の紙を挟んだ。

“週末、良かったら飲み会しませんか。今度は僕の部屋で”

あくる日、僕の部屋の郵便受けに、見慣れた達筆で返事が入っていた。

“お誘いありがとう。じゃあ、土曜日の二十時頃お邪魔してもいいかい”

見慣れた達筆の文字から、イズミさんの少し低い、落ち着いた声が簡単に僕の脳内に再生された。

“大丈夫です。お待ちしています”

それだけの文字を、僕は三回、書き直した。しかし、イズミさんのように美しい文字は書けなかった。

 午後になって、少し綺麗きれいになった部屋で簡単な昼食を済ませた僕はアパートから少し遠いスーパーへと出かけた。雨が降っていたこともあり、最寄りのスーパーに行きたかったが、せっかくの休日にわざわざ職場に向かうのは気が引けた。僕はスーパーでイズミさんがいつも飲んでいるウイスキーと自分の好きなジンを一本ずつかごに入れた。もちろん、炭酸水も忘れずに。食べ物はローストビーフにサーモンの燻製くんせい、チーズ、ミックスナッツにサラダと、普段の僕なら絶対に買わないものを籠に入れていった。多分、僕は浮かれていたのだった。ふと目についた豆腐に、僕はイズミさんが随分ずいぶんとそれについて熱く語っていたことを思いだした。豆腐を籠に入れた僕はその足で薬味のコーナーへと立ち寄り、迷うことなくミョウガを手に取った。

 アパートに戻ると、僕は買ってきたものを冷蔵庫に入れて、もう一度部屋を入念に掃除し始めた。あのミニマリストのモデルハウスのような部屋に住んでいるイズミさんを、中途半端な掃除をしただけの僕の部屋に入れることはできなかった。掃除をしているうちに気温はさほど高くないものの、ジメジメとした湿度が不快になり、僕は窓を閉めてエアコンをつけた。途端、以前イズミさんがエアコンが苦手だと言っていたことを思いだした。

「今夜、どうしようかな」

熱帯夜が忍び寄ってくる気配の中、不快な湿度でイズミさんを迎えることはできないと思う一方で、彼女が苦手とする人工的な快適さの行き渡った空間に招待することも気が引けた。エアコンの下に立って腕組みをしていた僕の視界にるものが入った。

「マットレス……」

普段僕は敷きっぱなしのマットレスに座って過ごしていたが、イズミさんを招待するとなると、このままでよいものか疑問であった。僕の寝床でもある場所に、彼女を座らせてはいけないと思ったものの、たたむこともできなければ、しまう場所も無いそれをどうしてよいのやら、分からなかった。僕はしばらくの間、エアコンとマットレスの扱いに悩み、うなっていた。

 使い終わった歯ブラシでトイレを掃除し、浴室の鏡の汚れを落とし、水垢のこびりついたシンクをこすり、随分と使っていなかった食器を洗っているうちに、ある言葉が脳裏をかすめた。

「あ」

手を拭き、エアコンのリモコンを見ると、その言葉があった。

「除湿だ」

僕がそのボタンを押すと、エアコンの風量が弱くなった。

「これならイズミさんでも大丈夫かも」

僕はひとつの最適解を導き出したような気になっていた。この調子でマットレスの方もなんとかなりはしないかと考えたものの、床を広く占領しているそれだけは、どうにもならなかった。

「やっぱり、立てかけるしかないかな」

裏返してみると、お世辞にも綺麗とは言えない色合いであった。僕は仕方なく、衣装ケースの奥にあった、自分でもその存在を忘れかけていた新品のマットレスカバーを開封し、マットレスの裏側に取りつけた。マットレスを立てかけると、床は予想以上に広くなったものの、不自然さはぬぐえなかった。

「ま、ましか。仕方ないな」


 日暮れがほんの少し、顔を覗かせる時間になって、僕はようやく、イズミさんを迎えられる状態を整えていた。まだ、窓の外では雨が弱く降り続いていた。掃除は隅々まで終え、マットレスは新品のカバーをまとって壁に立てかかり、便器に汚れは無く、エアコンは除湿機能で自然な快適さを演出し、冷蔵庫の中では洗剤で入念に洗われた皿の上に、今日買ってきた食材たちが即席のオードブルとして整列していた。もっとも、ミョウガだけは早くに刻んでしまうと香りが抜けてしまうのではないかと思い、まだ手を付けていなかった。

「あとはイズミさんを待つだけだ」

そのはずだったが、僕は落ち着かなかった。いざ、彼女を部屋に招き入れてから、とんでもない失態を発見するのではないかと恐れていたのだった。部屋を見回しては安堵し、不安になってはまた狭い部屋を歩き回った。いい加減なところで疲れを感じた僕はマットレスに背中を預け、座った。

「なんだか、今日は一日が長かったな」

スマートフォンを見ると、まだ約束の時間まで二時間以上もあった。動画でも見ながら時間を潰そうとした僕は、以前、イズミさんと話したとあるアーティストのことを思いだした。


「そういえば、イズミさんって、どんな音楽を聴くんですか」

どんな経緯であったか、はっきりとは思いだせなかった。

「うーん。それは難しい質問だよ。青年」

その時、イズミさんは缶ビール片手に、眉間みけんに指を当ててうつむいていた。

「もしかして、音楽とか、あまり聞かないんですか」

「いや、そんなことはない。とあるアーティストが好きでね。よくその人の音楽を聴くんだ」

「へー。なんていうアーティストなんですか?」

イズミさんは珍しく、眉間にしわを寄せて考え込んでいた。

「青年。君、口は堅いかい?」

「え?」

緊張感すら感じられる問いかけに、僕は戸惑っていた。

「約束は守りますよ」

「そうか」

イズミさんは決心したように、うなずいた。

「実はね、私の好きなアーティストは、決して人に勧めてはいけないアーティストなんだ。彼自身の意向でね」

「そうなんですか。なんだか珍しいですね」

「そうとも。彼は少し変な人なんだよ」

僕は一気にそのアーティストのことが気になり始めた。このイズミさんに“変な人”と言わせるだけの人物を、僕は知りたかった。

「絶対、言いません」

僕が確かな決意でそう口にすると、イズミさんはとあるアーティストの名前を教えてくれた。僕の聞いたことのない名前だった。

「こんなアーティストだよ」

イズミさんはスマートフォンで彼のライブ映像を見せてくれた。大きな箱型の被り物をした二人を従えた白髪の男性がステージに立っていた。本を片手にした彼が曲に合わせて手を動かすと、二人の人物が屈伸運動をしていた。本を開けば中が光り、舞台にある大きな機械からは電気がほとばしっていた。舞台の中央で宙を指さした彼を照明が照らしだし、観客たちは彼と同じ姿勢を取っていた。そんな様子を見て、僕はこれが新興宗教の集会ではなかろうかと考えていた。

「なんか、すごいですね、この人」

「だろ? 私にとっても、よく分からない人には違いないが、この人は多分、すごい人だよ。数年前、すっかり私もファンになってしまったんだ。いいかい、青年。秘密だよ、これは」

思えば、イズミさんと僕との間に、初めて秘密ができた瞬間だった。


 僕はそのアーティストの名前を検索し、いくつかのライブ映像を見た。その人は白髪の時もあれば、黒髪の時もあり、変なレーザー光線を出す機械を操っていることもあった。一緒に舞台に立っている二人の人物はテレビ画面のような被り物をしているかと思えば、ペストマスクを身につけていることもあり、溶接工のようなマスクを着けていることもあった。幾ら映像を見ても、よく分からないというイメージは変わらなかった。しかし、彼の、ただ変わっているだけでない、不動の凛とした魅力が少しずつ、伝わってくるような気がした。きっと彼は何かの信念があってそうしているのだとすら思えた。そのうち、変わっているのは彼ではなく、僕たちの方なのではないか、彼にとってはこれが到って普通なのではないかと、心が揺らぎ始めていた。

「イズミさんは、この人をどう思っているんだろう」

僕は彼女とひとつ、共通の話題ができていることに気がつき、嬉しくなった。嬉しくなって、そして早く、イズミさんに会いたくなった。

 気がつけば僕は一日中、イズミさんのことを考えていた。今の僕にとって、イズミさんと過ごす時間は夜道に不規則に灯る明かりのようで、平坦で先の見えない毎日に確かな温度を与えてくれていた。そう考えると、彼女と出会っていなかった時期の自分がどうやって生きていたのか、不思議で仕方なかった。イズミさんはやはり天使かもしれないと、僕は納得しつつあった。

 イズミさんと僕はどんな関係なんだろう。知っていた。隣人。それ以上でもそれ以下でもなかった。僕にとってイズミさんはちょっと変なお姉さんで、イズミさんにとっての僕は少し気がかりな弟だった。その関係性がすっと胸に落ちるようでもあり、何処かつっかえるようでもあった。しかし、僕には分かっていた。僕たちの関係性をイズミさんに問いかけることは絶対にしてはならないと。何より、僕自身が彼女とどんな関係性になりたいのか、はっきりと分からなかった。

 ようやく日の暮れてきた窓の外では雨が少し、強くなっていたようだった。

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