03_梅雨のイズミさん1
窓の外には
僕は午前中から起きだして部屋を掃除していた。辺りに脱ぎ散らかしていたシャツやジーンズ、靴下にパンツをまとめて近くのコインランドリーで洗濯し、衣装ケースにしまった。床を埋め尽くすほどの量になったペットボトルの大群は四十五リットルのごみ袋二つになんとか収め、捨てた。辺りの物を片付けて、床を掃除しようとしたが、僕の部屋には掃除機が無かったので粘着性のローラーでひたすらカーペットやフローリングをコロコロと掃除した。粘着面は直ぐに
今夜、イズミさんが訪ねてくるのだった。数日前、僕は意を決してイズミさんの部屋の郵便受けに一枚の紙を挟んだ。
“週末、良かったら飲み会しませんか。今度は僕の部屋で”
あくる日、僕の部屋の郵便受けに、見慣れた達筆で返事が入っていた。
“お誘いありがとう。じゃあ、土曜日の二十時頃お邪魔してもいいかい”
見慣れた達筆の文字から、イズミさんの少し低い、落ち着いた声が簡単に僕の脳内に再生された。
“大丈夫です。お待ちしています”
それだけの文字を、僕は三回、書き直した。しかし、イズミさんのように美しい文字は書けなかった。
午後になって、少し
アパートに戻ると、僕は買ってきたものを冷蔵庫に入れて、もう一度部屋を入念に掃除し始めた。あのミニマリストのモデルハウスのような部屋に住んでいるイズミさんを、中途半端な掃除をしただけの僕の部屋に入れることはできなかった。掃除をしているうちに気温はさほど高くないものの、ジメジメとした湿度が不快になり、僕は窓を閉めてエアコンをつけた。途端、以前イズミさんがエアコンが苦手だと言っていたことを思いだした。
「今夜、どうしようかな」
熱帯夜が忍び寄ってくる気配の中、不快な湿度でイズミさんを迎えることはできないと思う一方で、彼女が苦手とする人工的な快適さの行き渡った空間に招待することも気が引けた。エアコンの下に立って腕組みをしていた僕の視界に
「マットレス……」
普段僕は敷きっぱなしのマットレスに座って過ごしていたが、イズミさんを招待するとなると、このままでよいものか疑問であった。僕の寝床でもある場所に、彼女を座らせてはいけないと思ったものの、
使い終わった歯ブラシでトイレを掃除し、浴室の鏡の汚れを落とし、水垢のこびりついたシンクを
「あ」
手を拭き、エアコンのリモコンを見ると、その言葉があった。
「除湿だ」
僕がそのボタンを押すと、エアコンの風量が弱くなった。
「これならイズミさんでも大丈夫かも」
僕はひとつの最適解を導き出したような気になっていた。この調子でマットレスの方もなんとかなりはしないかと考えたものの、床を広く占領しているそれだけは、どうにもならなかった。
「やっぱり、立てかけるしかないかな」
裏返してみると、お世辞にも綺麗とは言えない色合いであった。僕は仕方なく、衣装ケースの奥にあった、自分でもその存在を忘れかけていた新品のマットレスカバーを開封し、マットレスの裏側に取りつけた。マットレスを立てかけると、床は予想以上に広くなったものの、不自然さは
「ま、ましか。仕方ないな」
日暮れがほんの少し、顔を覗かせる時間になって、僕はようやく、イズミさんを迎えられる状態を整えていた。まだ、窓の外では雨が弱く降り続いていた。掃除は隅々まで終え、マットレスは新品のカバーを
「あとはイズミさんを待つだけだ」
その
「なんだか、今日は一日が長かったな」
スマートフォンを見ると、まだ約束の時間まで二時間以上もあった。動画でも見ながら時間を潰そうとした僕は、以前、イズミさんと話したとあるアーティストのことを思いだした。
「そういえば、イズミさんって、どんな音楽を聴くんですか」
どんな経緯であったか、はっきりとは思いだせなかった。
「うーん。それは難しい質問だよ。青年」
その時、イズミさんは缶ビール片手に、
「もしかして、音楽とか、あまり聞かないんですか」
「いや、そんなことはない。とあるアーティストが好きでね。よくその人の音楽を聴くんだ」
「へー。なんていうアーティストなんですか?」
イズミさんは珍しく、眉間に
「青年。君、口は堅いかい?」
「え?」
緊張感すら感じられる問いかけに、僕は戸惑っていた。
「約束は守りますよ」
「そうか」
イズミさんは決心したように、
「実はね、私の好きなアーティストは、決して人に勧めてはいけないアーティストなんだ。彼自身の意向でね」
「そうなんですか。なんだか珍しいですね」
「そうとも。彼は少し変な人なんだよ」
僕は一気にそのアーティストのことが気になり始めた。このイズミさんに“変な人”と言わせるだけの人物を、僕は知りたかった。
「絶対、言いません」
僕が確かな決意でそう口にすると、イズミさんはとあるアーティストの名前を教えてくれた。僕の聞いたことのない名前だった。
「こんなアーティストだよ」
イズミさんはスマートフォンで彼のライブ映像を見せてくれた。大きな箱型の被り物をした二人を従えた白髪の男性がステージに立っていた。本を片手にした彼が曲に合わせて手を動かすと、二人の人物が屈伸運動をしていた。本を開けば中が光り、舞台にある大きな機械からは電気がほとばしっていた。舞台の中央で宙を指さした彼を照明が照らしだし、観客たちは彼と同じ姿勢を取っていた。そんな様子を見て、僕はこれが新興宗教の集会ではなかろうかと考えていた。
「なんか、すごいですね、この人」
「だろ? 私にとっても、よく分からない人には違いないが、この人は多分、すごい人だよ。数年前、すっかり私もファンになってしまったんだ。いいかい、青年。秘密だよ、これは」
思えば、イズミさんと僕との間に、初めて秘密ができた瞬間だった。
僕はそのアーティストの名前を検索し、
「イズミさんは、この人をどう思っているんだろう」
僕は彼女とひとつ、共通の話題ができていることに気がつき、嬉しくなった。嬉しくなって、そして早く、イズミさんに会いたくなった。
気がつけば僕は一日中、イズミさんのことを考えていた。今の僕にとって、イズミさんと過ごす時間は夜道に不規則に灯る明かりのようで、平坦で先の見えない毎日に確かな温度を与えてくれていた。そう考えると、彼女と出会っていなかった時期の自分がどうやって生きていたのか、不思議で仕方なかった。イズミさんはやはり天使かもしれないと、僕は納得しつつあった。
イズミさんと僕はどんな関係なんだろう。知っていた。隣人。それ以上でもそれ以下でもなかった。僕にとってイズミさんはちょっと変なお姉さんで、イズミさんにとっての僕は少し気がかりな弟だった。その関係性がすっと胸に落ちるようでもあり、何処かつっかえるようでもあった。しかし、僕には分かっていた。僕たちの関係性をイズミさんに問いかけることは絶対にしてはならないと。何より、僕自身が彼女とどんな関係性になりたいのか、はっきりと分からなかった。
ようやく日の暮れてきた窓の外では雨が少し、強くなっていたようだった。
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