03_梅雨のイズミさん2

 僕が買ってきたミョウガを全て刻み終わって、豆腐をパックから出したところでチャイムが鳴った。予定の時間よりも二十分程早かった。

「はーい。ちょっと待ってくださいね」

返事をして手を洗うと、僕はもう一度、部屋を見渡した。恐らく綺麗に片付いて、エアコンも除湿機能で作動し、机の上にはウイスキーとジンの瓶が並んでいた。僕はまだ何か抜かりがあるのではないかという不安と、イズミさんが訪ねてきたことへの高揚感で胸が高鳴っていることを自覚した。

 僕が開けたドアの隙間からイズミさんがひょっこりと顔を覗かせた。

「やあ、青年。こんばんは。すまないが、ドアをもう少し開けてくれるかい? 今、両手が塞がっていてね」

僕がドアを全開にすると、イズミさんは片手にラップをした皿を二枚、もう片方の手にはウイスキーとジンの瓶を持っていた。

「今日はお招きありがとう。お邪魔するよ」

「ええ、どうぞ」

今日のイズミさんはデフォルメされた猫が仰向けに寝転がっているイラストのTシャツを着ていた。猫の下には丸いフォントで“へそてん”と書かれていた。

「その辺、座ってください」

そう言った僕ははたと、気がついた。

「あ、すみません。クッションも何も無くて」

イズミさんは手にしていた皿を机に置いた。

「構わないさ。立派なカーペットが敷いてあるじゃないか。それに」

彼女は立ったまま、部屋中を見回していた。僕はまるでバイト先のスーパーに業務監査が入った時のような緊張感を抱いていた。

「随分綺麗きれいにしているんだね。いや、何も君の部屋が汚いだろうと思っていたのではないけれど、ちょっと驚いたよ」

僕はそのひと言で丸一日かけて部屋を掃除した苦労が報われたような気がした。

「ありがとうございます。今日はお酒も用意しましたし、オードブルなんて言うとちょっと大げさですけど、食べるものも用意しているんです」

僕は少し得意げになって冷蔵庫からローストビーフやチーズの並んだ大皿を取りだした。イズミさんはそれを見て驚いたような表情をした。

「おやおや。気を遣わせてしまったね。でも、ありがとう。今日は私も食べるものを持ってきたから、豪華な飲み会になりそうだね」

イズミさんは机に置いていた皿のラップを外した。そのうちのひとつには見慣れない黒い、半月の形をした物体が美しく並んでいた。

「イズミさん、なんです、これ」

「ピータンを知らないかい、青年。なかなかおいしいのだよ。君に食べてもらいたくて持ってきたんだ。そして」

イズミさんはピータンの隣にあった皿のラップを取った。そこにあったのはミョウガに埋もれた豆腐であった。僕は台所に戻って、刻んだばかりのミョウガを豆腐に乗せてイズミさんに見せた。

「実は、僕も」

「やっぱりそうかい。実は入ってくるとき、チラリと見えたんだ。やはり私たちは思考回路が似ているみたいだね」

イズミさんは僕に天使みたいな笑顔を向けた。


「あ、ちょっと待ってくれ、青年」

机に食べ物を並べ終え、冷蔵庫から酒を割る炭酸水を取りだそうとしていた僕に、イズミさんが声をかけた。

「どうしました? イズミさん」

「君は今日、晩ご飯を食べたかい?」

「あ」

今日の僕は飲み会の準備にばかり気を取られていたのだった。

「そうじゃないかと思ったんだ。ちょっと待っていてくれたまえ」

やがてイズミさんは自分の部屋から大きなおにぎりを持って戻ってきた。

「これを食べたまえ。空腹にアルコールは毒だからね。大丈夫。直に握ったりしていないさ」

イズミさんが直に握ったおにぎりなら食べられます、とは言わなかった。


 僕がおにぎりを食べ終え、ちょうど良い具合に空腹を満たしたところで、待望の飲み会が開始された。ジンもウイスキーもふんだんにあり、今日ばかりは手元の酒が減ることでイズミさんとの残り時間を気にかける心配もなかった。

「いやあ、青年。今日はありがとう。お誘いがあって嬉しい上に、君の心遣いが散弾銃さんだんじゅうのように迫ってくるよ」

イズミさんは変な例えで感心してくれながらローストビーフを食べていた。

「いえ、そんな。いつもお世話になってますし、これぐらいは」

僕は刻まれたミョウガと共に豆腐を食べた。ショウガよりも数段華やかな、植物を感じさせる衝撃が口内に広がった。

「どうだい、青年。ミョウガのインパクトは」

イズミさんが僕を観察するように眺めていた。

「思ってたみたいな、変な味はしません。むしろこれ、好きな味です。幼いころの記憶で苦手だと思い込んでいましたけど」

「ま、年齢によって味覚も変わるというからね。過去の自分の感覚も存外あてにならないと思わないかね。あ、そうだ。今、いい議題を思いついたよ」

「議題、というと?」

ジンを飲むとその炭酸にミョウガの香りが溶け込んだようだった。

「つまり、青年。君は一体、いつから君なんだい」

「というと?」

いつでも、イズミさんの抽象的な言葉を、僕は一度で理解することができなかった。しかし、そこには期待があり、嫌な感覚ではなかった。

「テセウスの船、というものを知っているかい?」

「いえ」

「つまりはだ、今ここに大きな古い船があるとする。それを一日ごとに新しい板で部分的に修理してゆく。しばらく経って船はすっかり新しくなった。しかしこれは元の船と同じだといえるだろうか? いえるとしたら何故? いえないとしたら、何処で元の船でなくなってしまったんだろう? こういうことだよ。これは私たちにも同じことがいえる。人間の細胞は日々、生まれ変わっているそうじゃないか。だとしたら私たちはいつから、今の自分になったんだろう。ミョウガを食べられなかった筈の青年は今、何処に行ってしまったんだろうね。昨日の君と今日の君は果たして同じ人間かな」

イズミさんは僕の不安をあおるような声を出すと、ミョウガにまみれた豆腐を食べた。

「うん。これこれ」

過去の僕と今の僕が違っているということはよく分かっていた。かつての僕は、決して今の僕と同じでないと直感していた。そしていつから今の僕になったのか、僕はその解答を見つけてはいたものの、それを言葉にするのが少し恥ずかしかった。僕はコミュニケーションで禁じ手とされているらしい質問返しをしてみることにした。

「イズミさんは、いつからイズミさんなんですか?」

「そうだにぇ」

イズミさんはゆっくりチーズを咀嚼するとハイボールを少しだけ飲んだ。

「いつからかは分からないな。でもはっきり言えることは、過去の私は今の私ではないということだよ」

当たり前の事実に聞こえたが、世界にあるひとつの真理を言い当てた名言であるようにも聞こえた。

「イズミさんも、過去の自分は自分じゃないって思うんですか」

「そうとも。あいつは狂ってたよ。イカれてたね」

果たして過去のイズミさんがどんな人物なのか、そればかりが気になっていた。

「でもね、青年。実はこの議論のかなめはいつから自分が今の自分でないかを知ることじゃない。大事なのは今の自分が過去の自分と違うという認識を持てるかということなんだ」

僕はイズミさんの言葉と共にローストビーフを咀嚼そしゃくしていた。

「そう。君も私も、これからいくつもの現在を過去へと変換してゆくことだろう。そしてその中には、今の自分と切り離してしまった方がいい過去もあるはずさ。気分よく飲み過ぎて財布の中の一万円札をわずかの千円札にしてしまった過去も、飲み会帰りのタクシーで友達のカバンの中にゲロをぶちまけてしまった過去も、目が覚めたら公共のゴミ捨て場の中でゴミ袋を枕にしていた過去も。都合の悪い過去は皆、自分と切り離してしまえばいいのさ」

イズミさんのウインクは今日も絶好調だった。随分と並んだ過去の一例たちは即興にしては具体的過ぎる気もした。

「泳いでいる魚はもう、がれ落ちたうろこのことなんて気にも留めない筈だろう?」

そう言ってイズミさんはサーモンを食べた。過去を振り返るな。そんなありふれた言葉が、イズミさんを通して解釈されるとこうなるのかと、僕は感動すら覚えながら、イズミさんの過去を気にしていた。


「さて、青年。そろそろチャレンジタイムといこうか」

互いに酒のお代わりを飲み始めた頃、イズミさんがそう口にした。僕がイズミさんに疑問の視線を向けると、彼女は黙ってピータンの皿を指していた。

「それ、さっきから気になってたんです。どんな味なんです? それ」

「どんなといって、形容しがたい味だにぇ。ま、百聞は一見にかず、百見は一接にかずというじゃないか」

「へえ。その言葉、続きがあったんですね」

「いや、出鱈目でたらめなんだけどね。まあまあ、とにかく食べてみたまえ」

僕は恐る恐る、ピータンをひと切れ箸でつかんだ。せっかく持ってきてくれたイズミさんに申しわけのない、注釈無しの表現をするならば、それは珈琲ゼリーがヘドロにまとわりついたような見た目をしていた。

「見た目は確かに暗黒界の卵だけれど、味わい深いものだよ。私は大好きだ。青年、安心したまえ。ミョウガを乗り越えた君に今、恐れるものなど無いさ」

イズミさんの言葉を鵜呑みにして、僕は暗黒界の卵を口に入れた。

 食感は見た目のとおり、ゼリーに近かった。しかし、噛むほどに、恐らくは黄身と思われるところから、特有な香りが立ち始めた。何処どこかでいだことのあるような匂いだと記憶を辿たどると、小学校の理科室に行き当たった。なおも咀嚼そしゃくしていると理科室と共に濃厚な動物性の味わいが舌に広がった。

「どうだい、青年」

笑みを見せるイズミさんは僕の解答を知っているようにも見えた。

「美味しいです。これ。確かにクセはありますけど、僕は好きです」

そう言いながら、僕は自分がピータンの話をしているのではなく、イズミさんの話をしているのではないかと錯覚した。

「お、青年もそこに気がついてくれたかね。そうだとも。ピータンは美味しいのだ。これで私たちはピー友というわけだ」

グラスを傾けるイズミさんを見て、僕は少しだけ自己満足に走ることにした。

「クセがありますけど、そこがいいんです。他のものとは違っていて、それがとても魅力的で、そして優しくもあって。それをもう知ってしまったから、僕は多分、この先、定期的に食べてたく、なると思います」

少し踏み込み過ぎたかと、僕は目を上げた。イズミさんはいつものように口角を上げて、僕の話を聞いていた。

「そりゃ、ピータンは幸せ者だよ、青年」


「そうだ青年。少し、窓を開けてもいいかな」

僕たちがお開きの宣言をした後、イズミさんがふいにそんなことを言った。

「寒かったですか」

僕はこのセリフをもう少し早く言うべきだったと反省した。

「いや、そうじゃない。君の心づくしは最適解だ。除湿は最高だ。そうじゃなくてね、青年は雨が好きかい?」

窓を開けると、車通りの無い深夜、雨の音だけが聞こえてきた。

「雨、ですか。好きとか嫌いとか、深く考えたことなかったです」

「そうか。私はね、雨が好きなんだ。今みたいな梅雨の時期には静かに雨の音を聞くんだ。雨はいいよ。世界から少し、遠ざかったような気がするからね。雨が草木に当たる音、路面に当たる音、ベランダに大きな雫を落とす音。それらが全部、薄手のカーテンのように自分を世界から遠ざけてくれる。静かに雨の音を聞いていると、守られている気になるんだよ。聞いてごらん、青年」

僕はイズミさんの隣に立って、雨の音に耳を傾けた。僕が考えていたのはイズミさんにとって、雨がどんな影響を与えるかということではなかった。世界から遠ざかりたいと、守られたいと、彼女もまた考えているのかということだった。

「私は好きだよ。梅雨が。これからくる真夏の晴天のように決してまぶしいわけじゃない。目立たない季節かもしれない。でも雨音で寄り添ってくれるんだ。確かな優しさをもった、愛しい季節だよ。いつまでも梅雨であってくれても、私は構わないんだよ」

僕は答えることなく、雨音を聞いていた。

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