02_散歩のイズミさん2

 深夜の人通りの無い住宅街をイズミさんは両手をポケットに突っこんだまま歩いていた。空に雲は無く、満月が白く光っていた。

「どうだい、青年。深夜の散歩というのも、おもむきがあると思わないかい。ちょうどいい酔い覚ましになるというものさ。それに、もうじき夏がくるとあって、夜でも冷えることはなくなった気がするね」

僕はそれに同意しながらも、イズミさんと彼女の部屋以外で一緒にいたことがなかったと気がついた。隣人のイズミさんもまた、外を歩くこともあるのだという当たり前の事実に触れられた気がして、嬉しかった。

「ところでイズミさん。そう簡単に見つかるんですかね。例外って」

「そりゃあ、君。簡単も簡単、感嘆符かんたんふ付きの簡単だよ。この世は例外まみれなんだからね」

「そうですかね」

僕は辺りを見回してみたものの、例外まみれである筈の世界は随分とまともな世界に見えた。

「なら、青年。ゲームをしよう。題して、例外ゲームだ」

「例外ゲーム? なんです、それ」

「互いに相手が指定したものから、例外となっている点を探すのさ。例えば、ほら」

イズミさんは立ち止まって、ポケットから手を出して近くのアパートを指した。

「青年。あのアパートから、例外を見つけられるかい?」

「例外……」

僕はそちらに目を向けて見た。何処にでもあるようなアパートで、例外的なものは見つけられそうになかった。

「まあまあ、青年。肩の力を抜きたまえ。なんでもいいんだ。どんな些細なことでも例外になり得るものだよ。自由に考えてくれたまえ」

「例外、例外……」

そう新しくないであろうそのアパートは四階建てで、二つの窓から明かりが漏れていた。

「じゃあ、青年。今、君があのアパートを見て感じたことを率直に言ってみたまえ。はい、三、二、一、どうぞ」

「ええ、ええっと、古い」

イズミさんはぐっと親指を立てた。

「グッドだよ。いい着眼点じゃないか。そうだね。このアパートはこの辺の建物に比べて幾らか古いね。それだけで充分例外的じゃないかい」

「そんなことでいいんですか」

「もちろんだよ。なんでもいいんだ。その他にも、あれに着目するのもいいね」

イズミさんは明かりの漏れている窓を指した。

「あの部屋、ですか」

「ああ。私が言うのも変かもしれないけれど、世間ではもう寝る時間だ。なのにこんな時間まで起きているあの部屋の住人も、私たちと同じように夜更かしをする悪い子なのかもしれないね。さ、行こうか。お散歩は始まったばかりだよ」

僕はイズミさんとの連帯感が少し強まったような気になりながら歩き始めた。


「じゃあ、イズミさん。これからも例外を見出せますか」

僕は通りかかった小学校を指した。

「なるほど。これは君、簡単すぎるよ」

「え、そうなんですか」

「そうとも。考えてもみたまえ。親類でも仕事仲間でもない人間がひとつの教室に集まって過ごしているんだ。これだけだって充分に例外的だけれど、小学校とは余計なバイアスなしに友達ができる可能性のある最後の場所じゃないかな。中学校以降では、男女で恋愛感情を意識してしまって純粋な友達関係が生まれづらいということもあるからね。ま、いずれにせよ、小学校とは例外の宝庫じゃないかな」

イズミさんの解答を聞きながら納得するとともに、僕は僕とイズミさんの関係性に思いをせずにはいられなかった。しかし、それをイズミさんに尋ねることは何故かできなかった。


 大通りに出る直前で、小学校の頃に飼っていたというアカハライモリのポチとの思い出話を終えたイズミさんはふと駆けだした。

「青年。いい題材だ。これはどんな意味で例外的だろうね」

イズミさんは“止まれ”と書かれた道路標識をペシペシと叩いていた。僕は随分と難しい相手と対峙した気になり、腕組みをして考えた。

「自由に考えてみたまえ」

イズミさんは標識に背を預けてこちらを見ていた。その姿が近くの街灯に照らされ、彼女のスタイルの良さがはっきりと分かった。

「例外……。ええっと。多分、こんなものは自然界には無いと思います。人間が人間のために作ったもの。それだけで例外的と言えるんじゃないでしょうか」

言いながら、少しこじつけが過ぎたと自覚していた。しかし、イズミさんは拍手しながらこちらに歩み寄ってきた。

「おお。いいじゃないか青年。随分とこのゲームが上達してきたんじゃないか」

「イズミさんの解答はどうなんですか」

イズミさんからであれば、もっとに落ちる解答が生まれると、僕は確信していた。

「うーん、そうだにぇ」

どうやら彼女は僕に問いかけておきながら、解答を考えていなかったようであった。

「ただ、在るだけで意味がある、かな」

「在るだけで、意味が?」

「そうさ。別にこれは夜道を照らすわけでもないし、雨が降った時に雨宿りができるわけでもない。ただそこに在るだけで、意味がある。そんなもの、例外的じゃないかな」

彼女の言うことを、なんとなく理解はできた。しかし、少し無理矢理な理屈のようにも思えた。

「おやあ? 私の解答にご不満がおありで?」

イズミさんは私の顔を覗き込みながら尋ねた。

「なんか、このゲーム、結局なんでもありじゃないですか? 僕のさっきの解答だってこじつけだし。これだと、なんでも例外になってしまいますよ」

「そこだ!」

突然、イズミさんが僕の胸に指を突き付けた。

「へ?」

戸惑っている僕を見ながら、イズミさんは脱力して再び両手をポケットに入れた。

「いいところに気がつくじゃないか、青年。つまりはそこなんだよ。このゲームはある程度上手くなると、結局なんでも例外にできてしまうんだ。それは決して私たちが例外性を見つけるのがうまくなっているということじゃない。肝心なのは例外の“例”の部分だ。かつ丼や天丼の“丼”の部分ともいえるね」

イズミさんは再び標識にもたれかかった。大通りをタクシーが二台、走っていった。

「私たちはこのゲームで例外を見つける時、いつでも自分自身の中にある常識や価値観や前提を組み替えて無理矢理、解答を出していたんだよ。どうしてこんなことができたんだろう。私たちは上手いんだ。勝手にそれらを作って納得することに長けているんだよ。そう考えると、どうだい、青年。自分がまともじゃないって思う君の考えも、このゲームのこじつけとそう変わらないのかもしれないよ。思い込みが怖いっていうのはこういうことさ。だから、君も、自分がまともじゃないって思ってつらくなるなら、今日のゲームのことを思いだしてくれたまえ」

何か分かりかけたような気がしたが、それすらも、僕自身によるこじつけではないかと疑ってもいた。しかし、イズミさんが僕の悩みに対して、彼女なりの解答を提示してくれたのだと考えると、ただ、嬉しかった。


 大通りを歩いていると、春の終わりを感じさせる、涼しい風が吹いてきた。

「そうだ。今日のゲームの意図に気がついた青年に景品を与えようじゃないか」

そう言って彼女が指す方にはコンビニがあった。

「景品、ですか?」

「ああ。深夜に食べるアイスは格別だよ。好きなものを選びたまえ」

イズミさんにつられて、僕も足を速めてコンビニへと向かった。

 コンビニに入ると初老の男性がひとりで働いていた。

「青年。今の君なら、このコンビニにも例外性を見つけられるだろうね。それもうんと簡単に」

イズミさんはチョコミントのアイスを手にして笑顔を見せていた。


 会計を済ませたイズミさんと僕はコンビニの外、ゴミ箱の設置されている辺りに立ってアイスを食べた。僕の心には未だ食べたことのないチョコミントのアイスがどんな味がするのだろうという気持ちと、そんなチョコミントがいかにもイズミさんには似合っているという気持ちが混在していた。

「んー? どうしたんだい、青年。そんなに見つめられると、お姉さん緊張しちゃうなあ」

イズミさんは青緑色のアイスバーを持ってにやにやしていた。

「あ、その、チョコミント食べるんですね」

「おや、青年は食べたことないのかい?」

「はい」

「ん」

「え?」

イズミさんは自分がひと口かじったアイスバーを僕の方に突きだした。

「なら、食べてみたまえ。ほらほら、遠慮はいらないよ」

目の前でアイスがぴこぴこと揺れた。そして僕はそんなアイスのかじられた跡に自然、視線が引きつけられていた。僕はイズミさんの食べた跡とは反対側の角を目を閉じてかじった。ミルクの甘みの中に確かな清涼感があり、小さなチョコチップの破片がアクセントを与えていた。それは決して僕が予感していた歯磨き粉の味ではなかった。

「どうだい、青年」

「美味しいです。思ってたより」

「そうかいそうかい。それは良かった。これで君も、チョコミン党員になったのかもしれないね。ところで、青年」

片方の口角を上げ、顎を少し持ち上げたイズミさんの表情がコンビニから漏れる照明にあやしく照らされた。

「私はてっきり、君がアイスを受け取ってから食べるものだと思ったんだけどね。まさか、あーんの要領で食べるとは、思わなかったよ」

一瞬で血流が顔に集まった気がした。

「いえ、その、咄嗟とっさのことだったから、つい。別にそんなつもりじゃ」

しどろもどろになる僕の横で、イズミさんは楽しそうに笑っていた。


「さて、そろそろ帰ろうか」

僕たちが歩きだそうとしたところへ、近くにたむろしていた大学生の一団からひとり、こちらへ駆け寄ってきた人があった。頬を赤く染め、ちらちらと後ろの集団を気にしている素振りのその男は、かなり酔っているように見えた。

「あいつ、マジで行ったよ」

「えー、やばー」

そんな声が聞こえてきた。

「お姉さん、マジで美人っす。れました。付き合ってください」

その男はイズミさんの正面に立つと腰を九十度に曲げながら手を差しだした。彼の後方でどよめきが起こった。

 僕は恐る恐る、イズミさんの顔を見た。心底つまらないというような、軽蔑すらこもった、僕の知らない表情をしていた。そんな僕の脳裏に、ふと散歩に出る前、イズミさんが繰りだしていた蹴りのことが浮かび、その大学生の安否が心配になった。しかし、イズミさんは足を動かすでもなく、ほんの小さなため息をつくと、僕のそでを弱い力で引いた。

「ねえ、お兄ちゃん。ハナちゃんね、お漏らししちゃったの。早くお家帰ろーよー」

鼻にかかり過ぎたような、きゃるんという形容が似合うその声は、普段のクールで落ち着いた、少し低いイズミさんの声とはまるでかけ離れていた。

「ね、おにーちゃん。行こ行こ」

あごを引いて僕の袖を引っ張るイズミさんを見る大学生は完全に思考を停止していた。


「いいかい、青年。ヤバい相手、めんどくさそうな相手と対峙した時は彼の予想の範囲外から攻撃を仕掛けるんだ。すると相手は一瞬、フリーズする。その隙を見て逃げるのが得策というわけさ」

帰路、イズミさんはそう解説してくれたが、僕はイズミさんの何処どこからあんな声が出たのだろうと、未だに不思議でならなかった。そう考えると、ふと、先ほど彼女が発したある言葉が気にかかった。

「イズミさんって、ハナさんっていう名前なんですか」

「え? ああ、さっきのあれかい? 違う違う、あれは出鱈目でたらめさ。咄嗟にアンドウハナちゃん五歳を憑依ひょういさせたんだ。ハナちゃんはいい子だよー。特技はバイオレンスおままごと」

「ねえ、イズミさん。イズミさんの名前ってなんなんですか。イズミさんっていうのは苗字ですか?」

ハナちゃんの物騒な遊びには触れず、僕はなん度目か分からない質問をした。

「おやおや。青年にはまだそこが気がかりなのかい? そりゃあ、君、秘密だよ。理由は知ってるだろ」

「天使だからですよね」

「そうそう。天使は名前を明かしてはいけないとモタイによる福音書第十八章にも書かれている」

イズミさんはスキップで僕の三歩先に立ってくるりと振り返った。

「それにね。これは君にとってもいいことなんだよ?」

「そうですかね。僕は気になって仕方ないですけど」

言ってしまってから、自分が少し恥ずかしいことを口にしたのではないかと後悔した。

「おやおや。お姉さんのことがそんなに気になるのかなあ」

完全にイズミさんのペースになっていた。

「いいんだよ。これで。私が私の素性を最小限にしか明かさないことで、青年は自由に妄想できるじゃないか。今の君にとって私はイズミさんかもしれないし、レナさんかもしれない。タカハシさんかもね。キャリアウーマンかもしれないし、ジムのインストラクターかもしれないし、ニートかもしれないし、実は秘密結社の一員かもしれない。でも結局、それは別に重要な事じゃない。君にとって私はただの隣人のイズミさんなんだから、ね」

彼女が僕の肩に置いた手が、柔らかかった。


「じゃ、青年。今日はありがとう。おかげで楽しく過ごせたよ」

イズミさんはアパートの廊下で声を潜めてそう言った。

「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」

「覚えておいてくれたまえ。今日の例外ゲームとそれから」

イズミさんは部屋の戸を開けた。

「いつでも隣に、天使のイズミさんだよ。じゃ、青年。おやすみ」

パタリと閉まった戸に彼女の残像を見た気がして、僕はしばらくぼんやりと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る