終 ささやかな幸福


 うららかな陽が木洩れとなって地面に優しく揺れる午後。

 小さな塾舎の窓辺には、咲き残った白山吹の香りがふわりと漂い、春の柔らかな風をいっそう穏やかに彩っている。

 その奥では広い黒板に、有名な詩歌が一句、右肩上がりの几帳面な、大きな文字で書かれていた。――あめんぼ あかいな あいうえお。うきもに こえびも およいでる。

「せんせい、さようならー!」

「またあしたー!」

 甲高い声が、玄関の引き戸を押しのけるように弾ける。足音はぱたぱたと石畳の道へ駆けていき、子どもたちの姿は黄色い帽子と笑い声を残して去っていった。

「はい、さようなら。帰り道、気をつけて」

 教室の敷居から、ひとりの男が顔を出して見送った。

 黒羽伶司――かつて帝都五家のひとつ、蜂家紋の黒羽家の当主と呼ばれ、怜悧な頭脳と術の腕前を畏れられていた男は、今はもうその名を棄て、帝都の片隅で小さな私塾を開いていた。

 教養、筆記、そろばん、詩歌の初歩――教える内容は決して専門的なものではない。だが彼の教え方は丁寧でわかりやすく、子どもたちだけでなく親からの評判も上々だった。

「お疲れ様でした。今日も、賑やかでしたね」

 玄関先で見送る伶司の肩に、軽やかな声が届く。

 振り返ると、日除けの帽子を片手にした女性が立っていた。柔らかな上掛けの裾が風に揺れ、袖口からは薄桃色の手甲がのぞいている。

「……うん、お疲れ様。今日の子たちは特に元気だった」

 視線が交わり、どちらともなく、くす、と微笑み合うふたり。

 詩乃は伶司の妻として、夫とともに帝都の片隅で暮らしていた。当然その身に仰々しい肩書などは何もなく、今や彼女にかしずく女中や使用人なども誰もいない。ごく普通のありふれた主婦。それが今の彼女だった。

 あの火事の日以来、二人はあらゆるものを失った。

 蜜巣の封印。それに伴う、呪力の喪失。伶司だけでなく黒羽本家は全員がその呪力を失い、術師を名乗れなくなった黒羽家は『帝都五家』からの除名が決定した。

 それはすなわち、呪術以外の稼業を持たない黒羽家にとっては、破産宣告にも等しいものであったのは言うまでもない。収入源を失った黒羽本家の男たちは、目前に控える没落の二文字に震えながらも、今更平民を相手に商売をするほどの気概も持てず、貴金属などの財産を切り売りしながらやっと生活しているという。

 中でも伶司の弟・崇臣は悲惨だった。現役大学生である彼は術師の家に生まれたのをいいことに、簡単な術で学友を脅かしては金品を巻き上げたり、家に勝手に転がり込んでは家主を無視して長々と居座るなど、お世辞にも行儀の良い学生とはいえなかった。

 それが今では呪力を失い、さらには自ら引き起こした火事で、実家と財産をも丸々なくしてしまった。結果、それまでは権力を畏れて彼を許容していた友達からもすっかりそっぽをむかれてしまい、頼れる相手が一人もいない孤独の身になっているのだという。

 完全に自業自得であるが、彼は自分の責任を認められないようで、今でも安酒を浴びるほど飲んでは周りに威張り散らしているそうだ。もちろん伶司や詩乃は彼と連絡をとっていないので、周りからちらほらと伝え聞くほどにしかわからないのだが。

 結局、よくある没落華族として呪力も地位も名誉も失い、もはや面白みもないとして記者や野次馬からも見放された黒羽家。

 でも、こうして並んで陽を浴びる伶司と詩乃の表情は、どこか清々しく、そして穏やかだった。

「ところで詩乃、その手紙は?」

「……あ、これですか?」

 詩乃は少しだけ照れたように笑い、持っていた封筒で微笑む口元を隠してみせた。封筒の宛名には、整った文字で「杉浦忠明先生へ」と記されている。

「新刊を、送っていただいたのです」

「新刊?」

「ええ。忠明さんの作家としての処女作、ついに出版されたのですよ。……とても素敵な話だったので、ぜひ感想をお伝えしたいと思って、このように」

 封筒の中には、詩乃の手書きの手紙が一通。

 かつてセンセーショナルな記事で帝都を震わせたあの男が、今は人の心の奥にそっと触れるような、静かでどことなく暖かな物語を書いている。その作品の冒頭に『ある女性の優しさが、ひとりの男を赦した』というくだりがあったことを思い出し、詩乃はくすっと、ほどけるように優しい微笑みを浮かべてみせた。

「そうか。……よかったな」

 伶司は静かに目を細め、封筒を見つめる。

 復讐者としてではなく、物語を紡ぐ者として再び歩き始めた忠明。

 あの手紙が――澄美の最後の言葉が、彼の心を救ったのだ。少なくとも詩乃は、そう信じていた。

「……ねえ、伶司様」

 詩乃はそっと、風にあおられた髪を片手で押さえながら、伶司の隣に立った。

「どうした?」

「ええと……あのね」

 指先をもじもじとさせながら、あちこちへ視線を泳がせる詩乃。でも、その表情の奥には、どこかためらうような揺らぎが見える。

 伶司はその姿を見つめながら、ゆっくりと首を傾ける。話を急かすわけでもなく、かといって興味がないわけでもない。彼女の口が自然と開くのを大人しく待っているようだ。

 やがて詩乃は彼の顔を見上げ、ふんわりと微笑んだ。

 少しの沈黙。春風に白山吹の香りが混ざり、まるで背中を押すように詩乃の頬を撫でていく。

「……私たち、もうすぐ、三人になります」

 言葉が落ちるまで、ほんの一瞬。

 けれど、伶司はまるで時が止まったかのように動きを止めた。

「……え?」

 目を見開いたまま、たっぷり三秒。

 固まった伶司の姿に、詩乃は恥ずかしげに目を伏せる。そして、少しだけ頬を赤らめながら、もう一度小さくうなずいた。

「お医者様に見ていただきました。まだ本当に小さな命だけれど、ちゃんと……生きてます」

 細い指がそっと、愛おしげに帯の上をさする。

 伶司の墨色の瞳が、波打つように大きく揺れた。

 わずかにわななく口元。額にちいさく浮かぶ汗。困惑――だがそれは、決して悲しみから来たものではない。

 なぜなら彼の表情には、花開くような光が溢れているからだ。まるで満開の花びらが吹雪となって吹き抜けるような、明るい輝き。

 そして彼はただ、目の前の妻を見つめる。

 一度口を開きかけて、でも言葉を失い……そしてもう一度、ゆっくりと顔を上げる。

「……ありがとう」

 声はかすかに震えていた。でも、そこに宿る想いの深さは、言葉では測れなかった。

 伶司はそっと手を伸ばし、詩乃の手を取る。手のひらの中に、あたたかい命の重みを感じるように、指を絡める。

 絡んだ指先は導かれるように下へ。詩乃の腹へ。まだそこからは耳でわかるような何の音も聞こえてこないけれど、それでも途端に胸が熱くなり、伶司はかすかに喉を鳴らす。

「詩乃、俺は本当に」

 二人に言い聞かせるように、溢れるように伶司は言った。

「ほんとうに――幸せだ」

 詩乃は瞳を弓形に細め、柔らかな笑顔のままうなずいた。

「はい。……私も、幸せです」

 春の光が二人を包む。

 黒羽の名も、呪術の力も、もうこの世界にはない。

 けれど――

 残されたもののなかに、確かにひとつの「未来」が芽吹いている。

 穏やかで、静かで、けれど決して失われることのない、愛しい日々。

 二人は寄り添いあったまま、導かれるように空を見上げる。

 雲の影から白鳥が一羽、まるですべてを見届けたように、青空の向こうへと優雅に飛び去っていった。




『蜜巣の花嫁』 おわり

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蜜巣の花嫁 大正夜話浪漫抄 雪静 @yuki_shizuka

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