怪異の鼻先
書庫番
第1話 箱
「やぁ、初めまして。あれ? 確か、初めましてで良かったんだよね?」
そこは恐らくは室内のようだが恐ろしく暗く、自分の周囲すら定かではない。
それでも前方の天井からは豆電球が吊り下げられ、頼りない明かりでわずかな範囲を照らし出している。
「ん、どうしたのさ。そんな不思議そうな顔をして。わざわざここに来たって事は、君は僕から話を聞きに来たんだろ? さ、遠慮しないでこっちに来なよ」
その下にいるのは一人の少年のようで、古くぼろぼろなソファーに体を預けていた。
それからすぐにそちらへ向かおうとすると、舞い立つ塵や埃のせいで思わずむせ返りそうになる。
「ふふっ、大丈夫かい? あんまりここの空気が合わなかったみたいだね。特に君みたいな学生さんには、こんな場所は似つかわしくないか。まあもう夜も更けてきた事だし、用をさっさと済ませよう」
続けてゆっくりと身を起こした少年は、不安定に点滅する明かりの下でなおも笑みをこぼしていた。
「えぇっと、でも何を話せばいいのかな。何かリクエストでもあれば、話しやすいんだけど……。え? そういうのは特にない? うーん。そういうのが一番困るんだけど……」
それからすぐ側にあった革張りの椅子に自分が腰を下ろすと、少年は腕組みをしながら悩み出す。
「よし、じゃあこうしよう。これから僕が思い付くまま、いくつか話をするから。君はそれを聞いていればいい。その後にどうするのか、それは君の自由さ。事の真偽を確かめるもよし。あるいはその話を誰かにしてみてもいい」
やがて少年は人差し指を立てると、場違いな程に明るい声を発していく。
「ん? 別に報酬なんていらないさ。これは僕が好きでしているんだから。え? どうしてこんな事をしているのかって? さぁ、それはどうしてだろうね。もしかしたら……。僕の話を最後まで聞いていたら、あるいは何かを掴めるかもしれないよ?」
その顔にはいつまでも楽しげな笑みが浮かび、それはこの場のある種異様な雰囲気に一役買っているかのようだった。
「……」
深夜のとあるアパートの一室には、一人で何かに没頭する青年の姿がある。
電気も点けずに窓も閉め切られた室内は真っ暗で、ただせさえ狭い部屋がより窮屈に感じられた。
青年はそこで眼前のパソコンの画面をじっと見つめ、一心不乱に文章を打ち込んでいく。
外見の印象ではまだ若そうだが、目の下には大きなくまを作ってやつれているようにも見える。
そんな青年が見つめる画面からはやけに明るい光が放たれ、そこには次々と流れるように文字が映し出されていった。
これは昔、僕が小学生の頃に実際に経験した話だ。
一読するとこんなものは荒唐無稽で、とても信じられないかもしれない。
だが僕は何としてもこの事を誰かに伝え、こうして書き込む事で記録にも残しておきたい。
これは僕にとっては本当に恐ろしく、摩訶不思議で特別な話でもある。
他人からすればどうでもよく思えるかもしれないが、僕はきっと一生忘れる事ができないだろう。
前置きが長くなったが、とにかく話を始めよう。
この話はまず、僕が小学生の頃にまで遡るのだが……。
当時はよく学校が終わった後などに、数人の友達と一緒に近所の神社で遊んでいた。
確かその日は特によく晴れた、夏の暑い日だったのを覚えている。
あまりの暑さで服は汗ばみ、蝉の鳴き声もあらゆる方向からずっと響き続けていた。
そう言えば頭上に広がる青空には、どこまでも伸びていく巨大な入道雲が浮かんでいたな……。
一方でその神社はかなり歴史が古く、地元では誰もが知っているような所だった。
そこは特に珍しい物がある訳ではないが、敷地自体がかなり広い。
ちょっとした林くらいの木々や大きな池、古めかしい建物などもいくつもある。
要は子供からすれば格好の遊び場で、僕や友達は毎日飽きもせずよく入り浸っていた。
その日も僕は友達とかくれんぼをする事になり、すでに友達は思い思いの場所へ散っている。
鬼役の子も隠れた子達を探し始めていたが、僕はまだ隠れる場所を決め切れずにいた。
それから少し敷地内を進んでいくと、ようやく外れの方で小さな物置らしき建物を見つける。
そこはこれまで入ったどころか、見かけた事すらないような建物だった。
「……」
何故かそこを見ると、僕はやや手前の位置で躊躇したように立ち尽くす。
それでもすぐにかくれんぼの事を思い出すと、意を決して戸に手をかけていった。
幸いにもそこに鍵などはかかっておらず、すんなりと入れたが中はかなり薄暗い。
上の方にある小さな窓からわずかに光が差し込む以外は、他に光源も見当たらなかった。
「ごほっ、ごほっ……」
どうやら換気も滅多に行われていないのか、辺りは非常に埃っぽい。
そこで呼吸をしていると、何となくだが田舎の祖父母の家の匂いを思い出した。
それから辺りを見回していくと、様々な荷物が乱雑に置かれているのに気付く。
ここなら隠れる場所はいくらでも見つけられそうで、僕は適当な物陰に体を潜り込ませていく。
少し息苦しくはあったが、どうせすぐに見つかるだろうと思って我慢していた。
しかしいくら待っても、物置には誰も入っくる様子がない。
それどころか、鬼や友達が近くにやってくる声や気配すらないままだった。
「……」
僕は少しおかしく思ったが、まだこの時点ではそこまで焦りもない。
むしろ暇で手持ち無沙汰になったので、何か遊べるものでもないか探し出そうとした。
するとそれからすぐ、奥の方に大きな箱を見つける。
人が余裕で入れそうな程の大きさの箱には、読む事の出来ない文字や奇妙な紋様が書かれていた。
さらに箱にはびっしりとお札も貼られ、それがただの物を入れる箱でない事が何となく分かる。
「……?」
正直それはかなり不気味としか言いようがなかったが、まだ幼い上に好奇心の強かった僕は恐る恐る近寄っていく。
その箱はよく見ると相当に古く、全体的に汚れて色あせている。
そして最初は辺りが薄暗くて気付かなかったが、近くに同じような箱がいくつも置かれているようだった。
そう言えば以前、学校の噂で聞いた事があるような気がする。
曰くこの神社には、とてつもない秘密が隠されていると。
「どれどれ……」
俄然興味の出てきた僕はやや小さめの箱を選ぶと、その内部を調べてみる事にする。
それは他の箱と比べれば小ぶりだが、当時の僕が入れるくらいの大きさはあった。
その事に思い至ると僕は、どうせなら箱の中に隠れようかという気持ちになってしまう。
今からすれば何と軽率で愚かだったのかと思うが、その頃は思慮深さなど欠片もないのだからしょうがない。
「よっと……」
僕は箱の蓋に大胆に手をかけると、それを一気に開こうとする。
「うわっ……」
するとそこに貼られていた札が何枚か破け、辺りには大量の埃が舞っていった。
どうやらその箱は長く人の手が触れられていなかったらしいが、当時の僕はそんな事は一切気にしない。
「ん……?」
蓋を置いて中を覗き込んでみると、そこには何も入っていなかった。
その内面は黒一色に塗られ、ただの箱のはずなのにまるで底がないような不気味さすら感じる。
「……!」
同時にふと本能のようなものが警告を発したのか、僕は一瞬だけ身を引こうとしていった。
「ぁ……」
だがすぐに遠くの方から友達の声が聞こえると、そちらへと意識が集中していく。
僕は慌てて箱の中に入ると、中から蓋を閉じて完全に内部に身を沈めていった。
外部からの光を失ったそこは当然だが真っ暗で、息苦しさもそれまでより増している。
それでも鬼に見つからないためには仕方のない事だと思い、僕はとにかく目を閉じて我慢する事にした。
そうなると後はただ耐えるのみで、そうしている間に時間だけが流れていく。
「?」
しかしそれからどれだけの時間が経ったのか、不意に何かがおかしい事に気付いた。
どうしてかそこでは、何も音が聞こえなくなっているのだ。
つい先程までわずかながら届いていた友達の声も、うるさいほど鳴いていた蝉の声さえもしていない。
ただでさえ何も見えない暗闇の中に一人ぼっちの状況で、僕はさすがに心細くなって箱から出ようとする。
「え……!?」
だが今度はどうしてなのか、いくら力を込めても蓋が持ち上がらない。
直前まで子供の力でも軽く動かせた蓋が、今は何かに押さえ付けられているかのようにびくともしなかった。
「ねぇ……! ねぇってば……!」
それでも僕は何度も何度も、箱の内側から蓋を叩き続ける。
そうして力の限り、暴れるようにして開けようとしたが開く様子は全く無い。
「……!?」
やがて焦りと恐怖で泣きそうになってくると、またおかしなことが起きていった。
それまで何の異常もなかった視界が、予兆もなく歪み出す。
本来なら暗闇の中で何も見えないはずなのに、自分の手もぐにゃりと曲がっているのが分かった。
それは本当に曲がっていた訳ではないだろうが、目や耳の感覚が狂い出していた中ではまともな判断は効かない。
「ぅ……」
さらに次第に平衡感覚も失うと、体から自然と力が抜けていく。
絶望と混乱で何が何だか分からなくなる内に、僕は朦朧として箱の底に腰を下ろす。
そしてそのままゆっくりと、まるで眠るように気を失なっていった……。
それから果たしてどれくらい意識を失っていたのか、はっきりとは分からない。
「は……!」
しかし僕は急に目を覚ますと、不安のあまり自分の体に異常がないか触っていく。
どうやら軽く調べた限りでは、特に変わった所や異常はないようだった。
意識や視界の歪みもすでに元に戻っており、自分の手を見てもいつもと同じままのように思える。
「ぁ……」
僕は少し呆然としながらも、ふと箱の中に閉じ込められていた事を思い出す。
後は蓋さえ開けば……。
そう思った僕は頭上を向くと、祈るようにしてゆっくりと力を込めていった。
するとさっきまでは何をしても開かなかった蓋が、何も抵抗もなくあっさりと持ち上がる。
「……」
今まで経験した事のない不安に怯え、苦労した分もあって実際はかなり拍子抜けしていた。
「よし……!」
だがこれでもう安心できる、いつもの日常が待っていると思うと僕は喜んで立ち上がっていく。
そして箱の外に出てみると、当たり前だがそこは元の物置の中だった。
一通り辺りを見回してみるが、何の変哲もないように思える。
まだ友達の姿はないが、あれからそれ程時間も経っていないはずだ。
僕はひとまず、そのまま物置の外へ出ていこうとする。
その時は欠片も気付いていなかったが、今思えばあの時に少しはおかしいと思うべきだった。
まだそこでは、何の音もしない異常な状況が続いていた事に……。
「……」
僕は戸の前で立ち止まると、そこに手をかけてゆっくりと力を込めていく。
出た先には神社の境内が広がり、友達も皆揃っているはずだった。
かくれんぼの状況は分からないが、恐らく僕以外は見つかっているだろう。
あまりに僕が見つからないために待たせてしまっているかもしれないが、それくらいは仕方ない。
何事もなく日常に戻れる事がただ嬉しかった僕は、そのまま一気に戸を開いていった。
すでに安心し切った僕の目には、すぐさま眩いまでの光が飛び込んでくる。
しかしその直後、僕に突き付けられたのは残酷なまでの現実に他ならなかった。
まず高い湿度と共に不快感すらあった暑さも、今ではまるで感じない。
むしろ急に季節が変わったのかと思える程、辺りの気温は低下していた。
「……!」
その正体不明の薄ら寒さのせいで、手足などは勝手に震え出していく。
最もそれらより遥かにおかしいのは、周りにある光景そのものだった。
神社の建物や側に生えている木などは、形こそよく似ているが別物だと一目で分かる。
何故ならそれらには一切の色がなく、まるで白い粘土で練り上げた作り物のようだった。
一応形は精巧であるが、逆に本物からただ色だけを抜き取ったような不気味さすら漂っている。
そしてその歪な景色は境内だけでなく、その先の周辺も同様のようだった。
この神社は辺りでも一番高い土地に建てられており、高さ的には町全体を見下ろせる位置にある。
「はぁ、はぁ……」
僕は大きく長い階段の上までやって来ると、息を切らせながら前へ視線を向けていった。
そして今の状況は何かの間違いだと、自分に言い聞かせるようにしながら眼下を眺めていく。
だがそこから見渡す限りにあるのは、どこまで行っても白一色の世界でしかなかった。
さっきの神社や木と同じで町にも全く色がなく、さらに空や山までもが白に染まっている。
あれほど印象的だった入道雲はどこにも見当たらず、空は白い無機質な壁が張り付いているだけのようだった。
「え……? あれ……?」
次々に見かけるおかしなものに対し、僕は必死で辺りを見回す。
とにかく何か見慣れたものはないかと、その時は焦りや混乱ばかりが先行していた。
それでもまだ心のどこかでこれは夢や幻なのではないかという気持ちもあり、そのおかげでぎりぎりの所で平静を保てている。
しかしそこから先へ進むとさらにおかしく、今まで自分がいた世界のものとは最もかけ離れた存在を見つける事になった。
それは最初は何なのか、全く分からなかった。
今まで見た事も聞いた事もないもので、目から入ってくる情報に対して理解が追いつかない。
あえて言うならそれは、巨大な芋虫のようなものであろうか……。
分厚い肉の塊に短い手足の生えた、本当に謎の生物が境内の中に何匹かいた。
顔のような部分についている目は、有り余る肉によってほとんど埋もれてしまっている。
鼻らしきものもあるがあまりに小さく、わずかに穴があるだけで人のものとは似ても似つかない。
だが口は間違いなく人のものとそっくりで、唇や歯のようなものも確認できた。
耳だと思えるものはかなり小さく、目を凝らさないと何なのか分からない程だった。
「……! ……!」
その生き物は呻き声のようなものを盛んに上げており、もしかしたらそれで意思の疎通を図っているのかもしれない。
さらに向かい合って会話をするかのように、時折低く唸るような声を発する事もあった。
他には笑い声のようなものも発しており、正直かなり不気味でしかない。
しかもよく観察すると謎の生物の頭部には独特なしわが刻まれ、それはまるで人の顔のようにも見える。
どうやらそれは個体ごとに微妙に違うらしく、どこか人間に近い部位を眺めていると吐き気さえ込み上げてきた。
そしてこの時になって、僕は初めて頭ではっきりと理解する。
ここは自分がいた、元の世界などでは断じてないと。
きっとあの箱は別の世界に通じていて、僕はそれを通って違う世界に来てしまったのだ。
だとすると、この世界に人はいないのか?
もしかしてあの肉塊こそこの世界における人であり、僕の方こそが連中からすれば化物なのか?
この世界にとって僕は単なる異物でしかなく、だからこそこうも心がざわつくのか?
いや、そもそも僕はいつまでこうしていればいいんだ。
どうすれば、元の世界に帰れるんだ?
いくつもの疑問や考えが頭の中に浮かんでは消え、僕はますます不安に苛まれていく。
そしてそのせいで、重大な事に気が付くのに遅れてしまう。
実はその時、その場にいた肉塊の全てが僕の方を向いていたのだ。
「……」
連中は微かな声も上げず、身じろぎもせずに僕の方をじっと見ていた。
「……」
一方で僕も指一本も動かせず、石像のように固まるしかない。
動けない代わりに冷や汗だけはよく流れる中、まるでそこでは時が止まったように感じられていた。
「……! ……!」
だが次の瞬間、肉塊の内の一匹が急に大きく叫び出す。
「っ……!」
恐らくそれは悲鳴だと思うが、異常なまでの高音は超音波のようで思わず耳を塞いでしまった。
それに連鎖するように肉塊達が次々と叫ぶと、その後は一斉に四方に散らばってしまう。
連中からすればいきなり現れた僕などは異形の怪物で、それを見て逃げ出したのかもしれない。
「くっ……」
対照的に僕はさっきの悲鳴で耳を傷め、おまけにひどい頭痛までするようになっていた。
そのために思わずその場に座り込んで休憩したくなるが、それはすぐに思い直す。
ここに長居してはいけないと強く自分に言い聞かせると、頭を振って頭痛をごまかしながら歩き出そうとする。
そして一刻も早く元の世界に帰ろうと、再び物置の方へ何とか向かっていった。
もしここに来たのがあの箱のせいなら、またあの箱に入り込めば元に戻れるかもしれない。
確証があった訳ではないがどれだけ細くともその希望に縋り付かないと、そこでは正気を保つ事すら難しかった。
ただそんな時、ふと何かの気配を感じた僕はとっさに近くの建物の陰に隠れていく。
「……」
そこから少し顔を出して様子を窺っていると、ついさっき逃げたはずの肉塊達が戻ってきた。
その後ろからは何と、体のより大きな肉塊が何体も新たに現れる。
そいつ等は前を歩く小さな肉塊より倍以上は大きく、手足も伸びていて顔のしわのようなものもはっきりとしていた。
恐らく小さいのが子供で、大きいのは大人なのだろう。
子供らしき肉塊は涙のようなものを肉の隙間から流し、大人らしき肉塊にしがみついている。
本来なら微笑ましさすら覚える光景なのかもしれないが、こっちからすれば気持ち悪いとしか形容できない。
あいつ等は僕を捕まえるために、大人を引き連れて戻ってきたのか……。
そう思った僕は、とっさに彼等が来た方向とは逆に走り出す。
本来なら今すぐにでも箱に向かうべきだったが、当時は巨大な肉塊への恐怖でそうしなかった。
いや、できなかったのである。
ただでさえ判断能力に乏しい子供である上、あまりに異様な世界にいきなり放り出されればそれもしょうがないのかもしれない。
とにかく僕は元の世界に帰ろうとするのではなく、まずはここから逃げるという選択をしてしまった。
「はぁっ、はぁっ……」
それからは肉塊が僕を探すのに集中している隙をつき、長い階段を下りて町の方へと逃げていく。
しかしそれは、どうしようもなく愚かな行為だったとすぐに気付く事となる。
町はどこを見ても白一色で同じような形の建物が並び、どれもまるで見分けがつかない。
おまけにここに来るまでに犬や猫、鳥や虫などのような他の生物も全く見かけなかった。
辺りには風の音すらなく、僕の足音だけがいつもよりやけに響いている。
今さらかもしれないがそこは明らかに元の世界と違い、とてつもなく異様な場所なのだと思い知らされた。
それからも不気味な程に静まり返った場に、やがて明らかな変化が訪れる。
僕の背後や前方、左右から何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ゆっくりとだが確実なそれは、少しずつでも僕に近づいているのがはっきりと分かる。
「あ……。ぅ……」
僕がどうしたものかとその場で狼狽えていると、すぐに周りにあの肉塊達が集結してきた。
その数は神社で見た時よりも一層増え、群れを成して僕の事を追いかけてくる。
とは言えその歩みはかなり遅く、あの芋虫のような体では素早い動きは出来ないのかもしれない。
それでも決して僕を追いかけるのを止めようとせず、いくつもの方向からじわじわと視界を埋め尽くしていった。
「わ……!」
おかげで僕は恐怖に狂いそうになると、少しでも連中を引き離そうといきなり走り出す。
ここの地理などまだ分かったものではないが、そんなものは構いはしない。
目の前に空いた道をただ全力で突っ走り、何とか化物の追跡を振り切ろうとする。
だがどう逃げた所で、肉塊の数は減るどころかさらに増えていった。
逃げた先で肉塊に鉢合わせする事もあり、僕は徐々に逃げ道を失っていく。
元からこちらは一人であるにも関わらず、連中は何匹いるのか見当もつかない。
「はぁ、ふぅ……」
すでに肉体的にかなり疲労していた僕は精神的にも追い詰められ、走る速度も目に見えて落ちていた。
やがて体力にも限界が訪れた頃、白く高い壁の聳え立つ行き止まりに辿り着く。
そこですぐに引き返そうと振り返ったが、後ろにはすでに肉塊の姿があった。
そいつは僕の事を見た途端、耳をつんざくような甲高い鳴き声を上げていく。
それは仲間を呼ぶ特殊なものであったのか、そこからすぐにでも肉塊達はその数を増やしていった。
あくまでその速度はゆっくりとだが、時間の経過と共に道の端から端まで肉塊達で満たされていく。
連中はまず僕の事をじろじろと眺め、気色の悪い声を次々と上げていた。
その間には小さい肉塊達も混じり、大きな肉塊の陰から僕の方を興味深そうに眺めている。
中には近寄ろうとする奴もいたが、より大きな肉塊に止められていた。
それから僕も肉塊達も一定の距離を保つと、事態はなかなか進展しなくなる。
てっきりすぐにでも襲い掛かってくるかと思っていたため、おかげで少しだけ落ち着きを取り戻せていた。
しかしだからといって妙案は浮かばず、僕もその場から動けないでいる。
どうやら連中は僕をどうするのか決めあぐねているようだが、おかげですぐにでも命を失う事はないらしい。
「っ……!」
それでももし連中に捕まってしまえばどうなるのか、少し考えただけで心が押し潰されそうになってしまった。
「わぁあぁあああ……!」
僕はそれから体の震えを無理にでも押さえ込むと、自らを奮い立たせるように渾身の大声を上げる。
さらに前のめりになると、その勢いのまま肉塊達に詰め寄っていく。
口から出たのも言葉や意味などない、ただの雄叫びに近いものでしかなかった。
だが効果は絶大であり、肉塊達は大きさの大小を問わず次々に後ずさりしていく。
未知の存在の異様さに怯えるのはあちらも同じなのか、蠢く肉塊がなくなると案外あっさりと道が開けていった。
そうして僕はそのまま獣のような叫び声を上げつつ、あくまでゆっくりとにじり寄るように歩き出す。
その途中では特に小さい肉塊を狙い、威嚇する事を忘れない。
相手はまだ幼いせいか、僕の叫び声を聞いた途端に甲高い悲鳴を上げて泣き出してしまった。
するとそれに同調するかのように、大きな肉塊達もさらなる混乱の渦に呑まれていく。
あれだけ音のなかった場が今はかなり混沌としたまま、僕は阿鼻叫喚の空間から逃れるように駆け出していった。
「はぁ、はぁ……」
残りの体力がどれだけあるか分からないが、僕はとにかくあの神社へ戻ろうとする。
しかしどこをどう進んでも、最後に行き着くのは白い壁に囲まれた行き止まりでしかない。
道や方角も定かではないため、それからいくつ角を曲がろうと結果は変わらなかった。
それでも僕にできるのは逃げる事だけなので、すぐに踵を返すと別の道を探そうとする。
今はまだ僕の威嚇も通じているが、いつそれが何の意味もないと気付かれてもおかしくない。
そうなれば後はただ捕まるだけで、その後は果たしてどうなるのか。
「ふぅ、ふぅっ……」
僕はそれから行き止まりに道を阻まれる度に心を激しく乱し、さっきまで忘れかけていた恐怖や混乱も最高潮に達していく。
「う、うぅぅっ……」
目には溢れる程に涙が溜まって、泣いていないのが不思議なくらいだった。
恐らく体を動かし続ける事で無理に正気を保っていたのだろうが、それもいつ破綻してもおかしくない。
このままでは気力と体力のどちらかが尽き、唐突に倒れ込んでもおかしくない状況にまで追い込まれていた。
「……?」
そんな時、ある道の曲がり角で僕は不思議なものと出会う。
真っ白な光を放つ街灯の下に佇んでいたのは、一見すると自分と同じ人間のようだった。
だがその佇まいはどこか普通の人と違い、安心感と同時に困惑のようなものも覚えてしまう。
その人はまるで幽霊のように儚く、言いようのない透明感があった。
さらにその身には淡く光っているような衣を纏い、頭からベールのようなものを被っているために表情はよく窺えない。
だとしても不思議と警戒心を抱く事はなく、根拠はないがいい人なのだと素直に思う事ができた。
加えてこの異様な世界で初めて人に出くわした事もあり、とにかく僕は何も考えず近づいていく。
「……」
その人はどうやら女の人のようで、僕に気付くとこちらに顔を向けてきた。
不思議とその人の側にいるだけで居心地が良く、どこか懐かしさのようなものすら感じられる。
だからこそまだ緊迫した状況であるにも関わらず、僕は街灯の光に照らされるその人を見上げ続けていた。
「……」
やがてその人はゆっくりと手を上げると、少し遠慮がちにこちらの方へ伸ばそうとしてくる。
ただそれは途中で止められ、そこから不意にある方角を指差していった。
「……そこに行けばいいの?」
何となく意図を感じ取った僕に対し、女の人は小さく頷く。
やはりその顔はよく見えないが、口元が穏やかに微笑んでいるのだけは分かる。
「うーん……」
一方で僕はどうしたものかと悩んではみるが、結局は選択肢などありはしない。
「よし……!」
それにどうしてもその人が悪い人間には思えず、決断した僕はお礼を言うのも忘れて走り出す。
「……」
そこに残ったその人はそんな僕の後ろ姿を、いつまでもじっと見続けていた。
何故そう思ったのかは、今でもはっきりと分からない。
でもあの人の優しい微笑みや、暖かな雰囲気のようなものを確かに背中に感じていた。
それはあの薄ら寒い世界の中にあって、唯一感じられた温もりに他ならない。
そしてそれがあったからこそ、僕はまた走る気力を取り戻せたのだと思った。
「はぁ、はぁ……」
やがて目的地の近くに辿り着くと、僕は顔を流れる汗を拭いながら立ち止まる。
すでにあれから大分走ったおかげで、眼前には神社へと続く長い階段があった。
少し前に逃げ出すために下りてきたそこを見上げると、その先には神社が鎮座している。
どうやら随分と回り道をしたが、ようやく戻ってこられたらしい。
やはり、あの人はいい人に間違いなかった。
そう思いながら僕は口元に笑みを浮かべると、疲れも忘れて一目散に階段を登っていく。
もう考えているのは帰る事しかなく、あの肉塊達の事すら頭の片隅に吹き飛んでいた。
そして階段を登り切った後は、境内の様子を窺っていく。
僕を探すためにどいつも町へ下りていったのか、そこには肉塊達の姿は影も形もなかった。
「ふぅ……」
僕がひとまず安堵するのも束の間、階段の下からは嫌な音がしてくる。
それはすでに耳の奥底にまでこびりついた、あの肉塊達が発する音だった。
あの不気味な声や体を引きずらせる音は、少しずつだが着実に近づいてきている。
とっくに逃げ切ったと思っていたが、あの肉塊達はまだ僕の事を探していたらしい。
「……!」
それが分かると僕の中には焦りや恐怖、混乱といったものがぐるぐると渦巻いていく。
そうなるともう我慢などならず、僕は即座にあの物置へ向けて駆け出していった。
そうして物置の中に入ると、まず内側から戸を閉める。
さらに近くにあった物を次々に動かすと、外から容易に侵入できないようにしていった。
恐らくこれで少しは時間が稼げるが、根本的な解決にはならない。
元の世界に帰るためにはあの箱を探さなければと思い立つと、周囲を漁り出していった。
その時はもしかしたら手こずるかもしれないと思ったが、そんな気持ちに反して労せずして箱を見つける事が叶う。
ただしその姿形は、僕の予想していたものとかけ離れていた。
箱は当初に見つけた時と違い、原型を全く留めていない。
古い年代物だったのが原因なのか、いくつもの穴が開いて無残にも壊れてしまっていた。
僕は駄目元で中に入ってみるが、当然の如く何も起こらない。
唯一の頼みの綱を失うと、頭の中には言い知れぬ不安が渦巻いてくる。
「うっ……。うぅぅ……」
他に何か方法がないか、僕は箱の中で座り込んだまま必死に頭を悩ませていた。
しかしそうしている内にも、物置の外がどんどん騒がしくなってくる。
それは想像したくもないが、あの肉塊達が僕の事を文字通りに嗅ぎ付けてきたのだろう。
すでにあの独特な肉を引きずる足音や、耳障りで不気味な声も嫌でも耳に届いてくる。
僕が物置の中でじっと身を潜めていると、今度は唐突に戸が派手に揺れ出していった。
どうやら肉塊達は物置を外から開こうとしているらしく、それに対する防備はほぼないに等しい。
まだあと少しは時間を稼げても、いつかはきっと力任せに押し切られるだろう。
今にも外れそうな戸を見ると、この場に押し寄せる肉塊達の姿が自然と脳裏をよぎった。
「……!」
それからも僕は恐怖に激しく震えていたが、不意に壊れた箱以外にも別の箱があったのを思い出す。
そのまますぐに乱雑に置かれた物をどかしていくと、やがて同じような箱を見つける事ができた。
もうこれ以上、こんな所にいるのに耐えられなかった僕は躊躇などしない。
その箱に貼られていた札を即座に剥がすと、乱暴にでも蓋を開いて中に入り込む。
そして内側から箱を閉じると、最初の時のように完全に体を沈み込ませていった。
内部にあったのも最初と同じ暗闇であり、周囲の音も今となっては完全に消え失せている。
視界や感覚が段々と歪むのも同様で、少し不快であったがおかげであの肉塊達の存在をわずかでも忘れられた。
とは言えもしも今、唐突に肉塊達が物置に雪崩れ込んできたらどうなるのか。
あるいは箱の中に入れたはいいが、次に行く世界が元と同じとは限らない。
もしかしたらまたこことは違う、別の世界に飛ばされてしまう可能性すらある。
そんな事を考えたくはなかったが、その思いとは裏腹に頭は勝手に思考を続けてしまう。
じっとしている他にはやる事がなかったせいか、何も考えないように努めても無駄だった。
「……!」
ただ目を強く瞑って唇を強く噛んでいると、ふとあの女の人の事が頭によぎった。
どうして急にそうなったのか分からないが、何故かそれからもその姿を鮮明に思い出していく。
それはこの暗黒にあって一条の光にさえ思え、そのおかげで僕はまたしても救われる。
「あ……」
あの優しげな微笑みによって体の震えは収まり、暖かな雰囲気は微かな不安すら消し飛ばしていく。
やがてどこにも根拠がなくとも、僕はもう大丈夫なのだと安堵するようになっていった。
「……」
そうなると不思議とこれまでなかった眠気を感じるようになり、瞼も一気に重さを増していく。
そうして僕は成り行きに身を任せるかのように、あの時と同じように眠るようにして意識を失っていった……。
「う、ん……」
再び目覚めた時、僕の視界の先にまず見えたのは物置の天井だった。
つい先程まで箱の中にいたはずなのに、どういう訳か今は床の上に仰向けで寝転がっている。
まだ頭が混乱しているせいか、今の自分の状況がどうにもよく分からない。
それでもこのまま、のんびりと寝ている場合でない事くらいはすぐに気付いた。
もしかしたら今この瞬間にも、あの肉塊達が襲いかかってきてもおかしくない。
「は……!」
僕は言い知れぬ恐怖に身を震わせると、いきなり跳ね起きるように体を起こしていった。
「うぉっ……」
「おぉ……!」
すると直後に周りから驚いたような声がして、複数人の気配や視線も感じる。
もしかしたら僕はすでに、あの肉塊達に取り囲まれていたのか……。
そう思って観念して周りをよく見たが、そこにいたのは拍子抜けするくらい普通の人間ばかりだった。
まずいたのは一緒に遊んでいた友達で、すぐ側には神社の神主さんや巫女さんの姿もある。
その時になって初めて、そこにいる誰もが一様に僕の事を心配そうに見つめているのに気付いた。
さらにこれも今になって気付いたが、物置の外からはうるさいくらいの蝉の声がしている。
同時に汗ばむような暑さも感じるようになり、それまで冷え込んでいた体を芯から温めていく。
「ぅ……」
ようやく元の世界に帰ってこられたのだと実感すると、僕の体からは急速に力が抜けていった。
すでに心身共に疲労や負担が限界に達していたのか、直後には意識が薄らいでしまう。
体は誰かに支えられたようだが、もう自分では体をまともに動かせない。
周りにいる皆が口々に何か発しているが、やけに遠くの方からしているようで判然としなかった。
辛うじて聞こえたのも救急車を呼ぼうと言ったり、家族に連絡しなければと言うごく普通なものでしかない。
だがそれは間違いなくこれまで聞き慣れた、人間の話す言葉に他ならない。
「……」
僕はまるでそれを子守歌のように聞きながら、今度こそ完全に意識を失っていった。
後で友達から話を聞いた所、僕だけが神社のどこを探しても見当たらなかったらしい。
すでに帰る時間も迫っていたために全員で探したが、それでもやはり僕の事を見つけられなかった。
まさか途中で一人で帰ったはずもなく、後はもう探していないのは物置くらいしか残っていない。
そこは神社で遊び慣れた誰もが入った事のない場所で、入ろうとしたら側で掃除をしていた巫女さんに声をかけられた。
子供が物置に勝手に入ろうとしていたら止めるのも当然で、そこで友達が詳しく事情を話す。
すると巫女さんが物置へ一緒に入ってくれる事になったが、まずそこでおかしな事に気付く。
厳重な鍵がかかっているはずの戸が、あっさりと開いてしまったのだ。
巫女さんが怪訝そうな顔をしたまま物置へ入り、友達もその後に続く。
しかしいくら中を見渡しても、僕の姿はどこにもない。
友達がますます頭を捻っている一方、そこには無残に砕け散った箱の残骸が散らばっていた。
それを見つけるとようやく、巫女さんは神主さんを呼びに走っていく。
やがて神主さんがひどく狼狽えた様子で現れると、まず皆を物置の中から引きずり出した。
それから慎重に内部を調べると、さっきまでは何ともなかった別の箱が壊れている。
それも一つや二つではなく、物置内にあるどの箱も原形を留めていなかった。
「……!」
神主さんがその事実に改めて身を震わせていると、ふと小さな声がしてくる。
呻き声のようなそれの元を辿っていくと、壁際にあった中くらいの箱に辿り着く。
そしてそこを覗き込むと、ようやく倒れ込むように横たわった僕を見つけられたとの事だった。
僕はそれから病院へと運ばれ、医師の診察を受ける事となる。
幸いにも怪我はなく、入院はもちろん注射もされずに済んだのが嬉しかった。
もちろんそのまま家に帰る事ができたが、あまり気分は優れないままでいる。
それと言うのも勝手に神社の物置に入り、そこにあった箱を開けてしまったのは事実だからだ。
自分がやった訳ではないが何故か箱も壊れていたし、友達や神社の人にも多くの心配をかけている。
親もひどく驚かせただろうし、申し訳ないという気持ちで一杯だったのが正直な所ではあった。
これくらいの事をしでかせば叱られて当然だとも思ったが、親からは特に何も言われない。
後日になってあの世界での出来事を親や友達にも詳しく話したが、誰も信じてくれなかった。
その反応は決まり切ったかのように同じで、誰もがあの出来事は夢だったと言ってくる。
特に親は不気味なくらいの寛容さで、僕の事をいつも以上に気にかけてきた。
普段は滅多に買ってくれない高価なおもちゃやゲーム、他にも様々な好物を誕生日でもないのに節操なしに与えてくる。
それはまるで物で気を逸らし、無理にでも箱の事を忘れさせようとしているかのようだった。
だが例え何があろうと、あの事を容易に忘れ去れるはずもない。
今でも目を閉じ、思いを馳せれば自然とあの時の記憶が蘇ってきた。
それはあの箱の中で感じた異様な感覚だけでなく、その先に広がっていた不気味な白い世界の事もある。
他にはそこで出くわした肉塊達や、僕を助けてくれたあの人の事も鮮明に覚えていた。
むしろ忘れようとすればする程、強烈に刷り込まれた記憶がはっきりと自己主張してくるように感じられる。
そして誰もが臭い物に蓋をするようにあの話題を避ける中、それでも話を信じてくれる人はいた。
神主さん曰く、あの箱は異世界に通じているらしい。
ある日の放課後に縁側で話を聞いてみると、案外あっさりと答えてくれた。
どうやらあれは江戸時代の初頭に持ち込まれた物らしく、神主さんもあまり詳しくは知らないらしい。
ただどことなく渋い顔をして語る様子からは、子供騙しの安っぽい作り話とも思えなかった。
一応はあの箱もいくつかの文献に記録として残され、限られた地域では口伝として残っているものあるらしい。
しかし中に何人入っていこうと、どれだけ待った所で箱から戻ってきた者はいなかったそうだ。
以降は箱は人を食らう魔物として厳重に管理されるようになったが、年月の経過と共に少しずつ忘れ去られていったと聞かされる。
科学全盛のこの時代ではそんなお伽話のような伝承を掘り起こす者もおらず、神主さんも箱に対しては半信半疑だったそうだ。
そして最後にお前はとても運が良かったのだぞ、と言われて頭を優しく撫でられる。
確かに僕は何事もなく、自分の元いた場所へと帰ってくる事ができた。
ただそれは決して、ただ運が良かっただけではないはずである。
その時の頭の中には、自然とあの人の姿が思い出されていった。
僕へと向けられた優しい微笑みや、儚いが暖かな雰囲気などを今でもはっきりと思い出せる。
未知の世界で僕に向かうべき場所を示し、窮地を救ってくれたあの人の事を神主さんにも話してみた。
すると神主さんは黙って話を聞き、何度か深く頷いた後に語り掛けてくる。
それはきっとご先祖様がお前を守るためにやって来てくれたのだろうと、まずそう言われた。
神主さんはその後も何か言っていたようだが、僕は少し夢現のような状態で話を聞き流す。
あの異世界にあったのは本来なら身を裂くような恐怖や混乱、あるいは膨大な焦りばかりのはずだった。
だがそんな所でたった一人、そっと佇んでいたあの人は違う。
どこか幻想的で美しく、この世の存在とはかけ離れたものといった例えこそがふさわしいのかもしれない。
そしてそんな人の事を考えていると、今度はあの出来事が全て夢だったのかもしれないとさえ思えてくる。
もしかすれば皆が言うように僕は、物置の中で気絶していただけだったのか……?
僕がそれからもぼうっと考え込む中、神主さんの話はまだ続いていた。
実はかつてあの箱を、神主さんのお爺さんが開けようとしてみた事があるらしい。
それでもその時は貼られた札がどうにも剥がせず、結局は開けるのを諦めてしまったそうだ。
以降はもっぱらあの箱は骨董品と同じ扱いで、管理もおざなりなものとなっていたらしい。
僕があそこで偶然に見つけたのも、恐らくはその箱の内の一つだったのだろう。
札を剥がせたのも年月が経ち、単に粘着が弱まっていただけではなかったのか。
しかしあの異世界に入り込んだ事を考えれば、やはり僕が入ったのが普通の箱であるはずがない。
「あれは特別な人間にしか開けられないのかもしれぬ。箱ではなく、別の世界への扉をという意味でじゃがな……」
それから神主さんは急に顔をしかめると、僕の方を覗き込むように見入ってきた。
「もしかしたらお前は、あの世界と相性がいいのかもしれぬ」
「え……?」
僕は思わず聞き返そうとしたが、その時には神主さんは顔ごと視線を逸らしてしまう。
「残った箱は全て回収してもらう手はずになったから、もう危険はないじゃろうが。くれぐれも、魅入られるでないぞ。修一」
そのまま神主さんが立ち去っていくと、僕は呆けたような顔でその場に残り続けるしかなかった。
あれ以来、実は何度も神社に立ち寄ろうとした事があった。
だがその度に途中で見知らぬ男達に止められ、結局は辿り着く事もできない。
そういう事が続くと、何だか妙に不気味に思えて行くのも億劫になっていった。
やがて僕はあの時の出来事を頭の隅に追いやると、あまり考えないようにしようとする。
すでに周りにいる人達もとっくに箱の事など忘れ去り、ごく普通の日常を過ごしていた。
僕だけがそうしない訳にもいかず、それに倣って平凡でも危険や不穏といったものとは縁遠い人生を送ろうとする。
だが結論から言えば、結局それはできなかった。
僕はその後も県内はもちろん、時には他県の図書館や郷土資料館に通い詰めてあの箱について調べてしまう。
地域のお年寄りや様々なコミュニティを巡り、昔の話などを片っ端から聞き回った事さえある。
ただどれだけの労力を費やそうと、何も分からず終いのまま無為な時だけが過ぎていった……。
僕はやはりあの事があってから、どこかおかしくなってしまったのかもしれない。
実はあの世界に行って以来、一つだけ確実に変わった事がある。
それは耳の奥にこびりついたあの肉塊達の声で、今でも不意に聞こえたと思える瞬間があった。
一応それは学校や家など、周りに誰かいる時には何故か聞こえない。
それでも僕が一人でいる時や何も考えずにぼうっとしていると、場所を問わずにしてくる。
最初は単なる耳鳴りかと思って気にしなかったが、段々と違う事に気付く。
初めは蚊の鳴くように小さかった音量も、時間の経過に従って着実に大きくなっているのだ。
今ではそれはかなり甲高く、すぐ近くで発しているような奇声となっている。
そのせいもあってあれから何年経とうが、何をしていようが決して日常などには戻れなかった。
本気であの声を忘れようとすれば、むしろ自分から突っ込んでいかなければいけないのかもしれない。
あの世界や肉塊達の正体を突き止めれば、これが単なる幻聴なのかどうかもきっと分かる。
そうすれば僕の心の大部分を占めるこの不思議な気持ちにも、ようやく決着をつけられるはずだ。
もしもこの事を放ったままでは、恐らくこれからもまともな人生は送れない。
何か進展があれば、再びここに書き込む事もあるだろう。
それでは、また……。
「ふぅ……。うっ……。疲れたなぁ」
青年は文字を打ち込むのを止めると、ぐっと背筋を伸ばしていく。
そのまま背もたれに体を預けると、虚ろな目で天井を見つめていった。
なおも室内はパソコンの画面の明かりだけで照らされ、ほとんど暗闇に包まれている。
「はぁ……。やっぱりもう一度、あの神社を訪れて探してみよう。今度は神主さんに内緒で、昔の記憶を頼りに……。まずはあの物置を探して……」
そんな中で青年は目頭の辺りを指で強く押さえると、それからややふらつくように身を起こしていく。
「あぁ、そうだ。その前にそろそろ、墓参りもしなきゃいけなかったんだ。まぁ、いいや……」
そしてパソコンの電源を落とした後は、リモコンで暖房のタイマーを設定していった。
まだ季節は夏だというのに、どうしてだか最近はやたらと空気が冷え込んでいる。
「今日はもう、とにかく休もう……」
直後に青年は椅子から立ち上がると、床に敷いてある布団の中へと入り込んでいく。
やがて辺りからまともな光源が全て消えると、そこには完全な暗闇と静寂が訪れていった。
それからしばらく時間が経った頃、部屋の中には青年の寝息くらいしか音を立てるものはなかった。
そんな時、不意に窓の外に蠢く影のようなものが一瞬だけ映る。
穏やかに寝入る青年からすれば、締め切られた窓の向こうの存在に気付く道理はない。
影はしばらくその場に留まった後、何かを引きずるような音を立てて離れていく。
直後に辺りは平穏さを取り戻し、通りには我が物顔で闊歩する野良猫の姿も見られるようになっていた。
先程まで寒気を感じるくらい下がっていた気温も、今は心なしか元に戻った気がする。
しかしその直後、どこからともなくやけに甲高い音が風に乗って辺りを通り抜けていく。
それは到底生物が発しているとは思えない一方、何かが高らかに産声を上げたかのようでもあった。
「さぁて、と……。まずは一つ目の話はどうだったかな? まぁいきなり感想を、と言われても困るか」
薄暗い室内で豆電球の明かりを一身に受ける少年は、そう言うと眼前の机に身を乗り出すように前のめりになってくる。
「あ、ところで彼の話なんだけど。あれで終わりじゃなくてね。実はまた、別の話に繋がっていて……。おっと。先の話をそうぽんぽんとしてしまうのは、少々無粋だったかな」
ただ途中で気が変わったように体を戻すと、そのままソファーに身を沈めていった。
「まぁ同じ人の話を続けても何だから、次は違う人の話にしようか。もちろん君もまだ、ちゃーんと聞いてくれるんでしょ?」
そして改めてそう言うとやや顔を傾げ、細めた目から有無を言わさぬような視線を向けてくる。
「よし、じゃあ次の話を始めるとしようか……」
やがて古いソファーから音を立てながら起き上がった少年は、再びこちらに向けて滑らかに声を発するようになっていった。
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