36.アリシアお嬢の作戦② ギルド監査
業務整備課が少しずつ軌道に乗りはじめた、ある日のこと。クロダのもとに一通の封書が届いた。
見慣れない封筒には判子がいくつも押されていて、いかにも重要書類といった見た目だ。いつものようにビリビリと破るのはさすがに気が引けて、クロダは珍しく慎重に封を切った。
「ギルド監査のお知らせ……?」
聞き慣れない言葉に眉をひそめ、続きに目を走らせる。
(なになに……『本監査は、ギルドの勤務体系および労務管理が適正に行われているかを審査し、是正を促すものである。違反が認められた場合は――』……って、な、なんかヤバそうな雰囲気だぞ?)
クロダは危険な雰囲気を察知し、即座に部下たちを緊急召集した。
三人は、クロダが手渡した書類を真剣に読み込んでいる。やがて、イゼルが「うーむ」と唸り声をあげた。
「これは……王国労働法ですね。ひと月前に発布されたばかりの、労働者の権利保護に関する新法です。……まさか、うちにも来るとは」
イゼルの言葉を受け、リーナがさっとファイリングされた資料を取り出す。
「目的は、休日の日数確保と、残業時間の削減。こちらに、法令の概要をまとめた記事があります」
リーナが差し出した記事を、皆で顔を突き合わせて眺める。
(一か月の残業時間の合計が……45時間? これって、もしかして結構まずいんじゃ……)
嫌な予感を覚えつつ、先月の勤務実績表を確認する。
「ユートは残業ほぼゼロ、リーナは35時間、私は50時間……イゼルは、えっと、60時間……」
クロダは青ざめながらイゼルを見る。さすがのイゼルもバツが悪そうに肩をすくめた。
「最近は新人研修の改革に力を入れていたもので……少しやりすぎましたか」
クロダは再び書類に目を落とす。
監査日程は今からちょうど一週間後とある。
(これは……本格的にピンチ、なのでは?)
手のひらにじんわりと汗がにじみ出る。
そんな時、クロダの脳内に妙案がひらめき、思わず手を打った。
「そ、そうだ! みんなの作業を俺が引き受けよう! 今日から残業禁止だ! 大丈夫、俺は何百時間残業しても平気だから――」
「課長、落ち着いてください!」
リーナがピシャリと制し、落ち着いた動作で手元の資料をめくる。
「月45時間を超えたからといって、即座に罰則があるわけではありません。年間360時間を超えなければ、ひとまずは問題ないはずです」
ホッと胸をなでおろすクロダだったが、リーナの表情は厳しいままだ。
「監査官が突っ込んでくるのは、おそらく時間よりも――管理体制のほうかと。……ユート、先週の勤務実績、まだ提出してませんよね?」
「あっ、たしかに! 出し忘れてたっス!」
リーナは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で睨みつける。
「書類の不備は確実に指摘されます。今すぐに出してください」
「は、はいっスぅ!」
ユートはリーナの圧にたじろぎ、すぐさま自分の席へとかっ飛んでいく。
次にリーナの目が向いたのは、イゼルだ。
「イゼルさんは、今月の残業時間を30……いえ、15時間以内に抑えてください」
「は、はい……」
完璧超人イゼルがやりこめられる姿に思わずニヤけるクロダだったが、そんなクロダにリーナの凍てつく視線が突き刺さった。
「……課長、いつも退勤時間を一時間ほどごまかしてますよね? 昨日も、本当は22時に帰ったのに、記録には21時と……」
「ど、どうしてそれを!?」
絶対にバレるはずがないと思っていたクロダは目を見開いた。リーナは呆れた表情だ。
「一緒に仕事をしてるんですから、分かるに決まっています。とにかく、監査官はそういう不正はすぐに見抜きますから、二度とやらないように!」
「はい……」
クロダは叱られた子犬のように小さくなった。ごまかすように手元の書類に目線を戻し、手元の書類の監査予定の欄を見る。
監査対象となる部署は、製品加工課に素材調達課、そして業務整備課……とある。
(俺のいた部署ばかり、狙い撃ちだ。誰か俺に、恨みでもあるのかな……)
◇
「くしゅん!」
自室でくしゃみをしたアリシアのもとに、素早くコンラッドが駆けつけた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
アリシアは鼻をスンスンさせながら頷く。
「平気よ。それより……《黒鉄の牙》の監査の話はどうなってるかしら?」
ギルドに監査の話を持って行ったのは……
なんと、驚くべきことに!
アリシアの仕業だったのだ!
最近発布された新法に目をつけ、もし《黒鉄の牙》が違反していれば、"従業員の保護"という名目でクロダを引き取ろう、という魂胆らしい。
コンラッドは、この件については何も言うまい、と決めていた。
公務に追われるアリシアにとって、これくらいの“息抜き”はあって然るべき――そう考えての判断だ。
「監査の準備は順調に進んでおります。一週間後に、高名な監査官がギルドに赴き、厳格な審査を行うことでしょう」
コンラッドはそこまで言い切ってから、アリシアがふくれっ面で口を尖らせたのに気づき、コンラッドはドキリとする。
「な、なにかございましたか……?」
「監査官だけでは不安よ。コンラッド、あなたも現地へ行きなさい」
「……へ?」
「クロダが、うちに来るか来ないかの瀬戸際なのよ? あなたのその目で確かめて、すぐに私に報告してちょうだい」
コンラッドは言葉を失った。自分がアリシアの傍を離れるなんて、本来ならありえないことだ。
しかし――ここで断れば、アリシア自身が「じゃあ私が行く!」と言い出すのは火を見るより明らかだ。
貴族外交に領地運営……彼女にしかできない仕事が山ほどあるというのに、それすら放り出して飛び出していくだろう。
「……承知いたしました。監査には、私が同行いたします」
コンラッドは静かに、しかし腹をくくって深々と頭を下げた。
(監査……何事も起こらなければよいのですが……いや、お嬢様としては"何かあって"欲しいのでしたね……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます