37.アリシアお嬢の作戦③ 監査当日

 ついにやってきた、監査当日。


 業務整備課の執務室は、リーナの指示のもときっちり整理整頓され、余計なものはすべて各自の引き出しに押し込まれていた。


 そして現れた監査官は、白髪を几帳面に撫でつけた老齢の男だった。隙の無い身のこなしと鋭い眼光から、不正の余地など一切ないことが見て取れる。


「机の整理整頓は及第点、といったところでしょうか」


 低く落ち着いた声に、ユートがビクリと身を震わせる。


 リーナが準備していた資料を恭しく差し出した。


「こちらが、過去三か月分の勤務記録になります」


 監査官はそれを受け取ると、黙々と目を通しはじめた。まるで書類の行間から真実を読み取るかのような目つきに、室内の空気がピンと張り詰める。


「……ここ、訂正の跡があるようですが?」


 監査官が指摘したのは、クロダが退勤時間を“誤って”記録していた箇所だった。クロダの胃がキュッと縮む。


「あ、それはですね、私の――むぎゅっ!」


 言いかけた瞬間、リーナのファイルがクロダの顔面に突き刺さる。額にクリーンヒットし、クロダは涙目で額をさすった。


「それは課長の記入ミスです。うちの課長、ちょっとおっちょこちょいなものでして……ね?」


 にこやかに言いながら、目が笑っていないリーナの視線に、クロダは黙って頷くことしかできない。


 監査官は一瞬だけ眉を動かしたが、とくに何も言わずに次のページへと進んだ。


「こちらの……イゼル様は、少々勤務時間が長いようですね」


 待ってましたと言わんばかりに、イゼルがすっと前に出た。


「はい。ですが、それは私の意志によるもので――うぐぅっ!」


 リーナが、イゼルの足を容赦なく踏みつけた。イゼルが変な声をあげて動きを止めた隙に、リーナがすかさず補足に入る。


「残業時間が基準を超えていることは、もちろん把握しております。本人と面談を行い、心身の状態に問題がないことは確認済みです。今月からは調整済みで、すでに稼働時間も改善傾向にあります」


 監査官は小さく頷いた。


(この場は……もう、リーナに任せるしかないな)


 男三人は縮こまって存在感を消すのみだ。


(この世界に、ハイヒールがなくてよかったなあ……。もしあったら、イゼルの足が使い物にならなくなるところだった)


 そんなことを考えながら現実逃避していると、クロダの視線の先に、ひとりの男の姿が映った。


(あの人は……この前来た令嬢の横にいた、執事? どうして、こんなところに……?)


 監査官たちの一団の中に、見覚えのある執事――コンラッドの姿があった。どうやら視察担当として同行しているようだ。


 クロダと目が合ったコンラッドは、厳しい視線で品定めする――かと思いきや、なぜか少し憐れむような目を向けてきた。


(……なるほど。副業で監査の手伝い中ってわけか……。執事だけじゃ食っていけないんだな……)


 クロダが執事の心中を察して、同情的な視線を送る。すると、コンラッドは小さく息を吐いて、苦笑いを返した。





「どういうことなの! ちゃんと説明しなさい!」


 監査結果を持ち帰ったコンラッドは、早速アリシアに詰め寄られていた。


「どういうこと、と申されましても……報告書に記載の通りです。《黒鉄の牙》は何の問題もなく――むしろ模範的な運営状況でした」


 アリシアは苛立ち、地団駄を踏む。右手に持っていた報告書は、握り潰されてすでにクシャクシャだ。コンラッドは気遣わしげな声で続けた。


「お嬢様……《黒鉄の牙》は健全に運営されており、クロダは正当に評価され、しかるべき立場で活躍しております。それで良いのでは?」


「いやよ! それじゃあ、クロダを手に入れることができないじゃないの!」


 アリシアは金切り声を上げながら、ベッドに勢いよく突っ伏した。


 アリシアがクロダを助けたいと思ったのは、彼が有能でありながらも、不当に扱われていたことが許せなかったからで……


「あれ? 現状、問題は全部解消されているわね……」


 そうなのだ。


 クロダは課長に昇進し、部下にも慕われ、環境も改善されている。


 今回の監査で、それが公的にも証明されてしまった。


「むぅ……私の負け、ということかしら。クロダを引き抜くのは、難しそうね……」


 ぽつりとこぼしたその言葉に、アリシアの表情はいつもの冷静さを取り戻していた。


 それを見て、安堵の息を吐いたコンラッドは、ここぞとばかりに本題へと切り出す。


「では、監査の件はこれで――公務の続きをよろしいですか?」


「ええ。次は何かしら?」


「はい。旦那様より、関所工事において人手が足りないとの報告が……。よって、クロダおよび《黒鉄の牙》の監視人員を解除し、そちらに回す案が……」


「ダメよ」


「えっ」


 アリシアは間髪入れず、バッサリと切り捨てた。


「クロダの身に何かあったらどうするの? 監視はそのまま続けてちょうだい」


「しかし、人員の件は……」


「そんなの、私が近隣の町へ出向いて直談判すれば済む話でしょ? さ、行くわよ」


 アリシアは意気揚々とスキップしながら部屋を飛び出していった。


(お嬢様がここまでこだわるとは……クロダ、まったく罪な男ですね……)


 コンラッドは小さく肩をすくめると、早足でアリシアの後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る