第1章 自殺者リスト
板橋の雑居ビルの一棟は、節操がなかった。
風俗、エステ、違法マッサージ店がひしめくのはよい。
行政書士事務所があるのも、理屈には合う。
場違いなのは田中愛子の勤める興信所であった。
凍れる師走から逃げるように愛子は出勤してきた。
先輩の足元からストーブを強奪してから、自席に着く。
「お前な、あいさつもなくそれはどうなの?」
大塚忠司は、無駄な苦言を呈した。
「おはようございまぁす」
愛子はやれやれとでも言いたげだった。
寒いならコートでも着ればよいだろうに、愛子の恰好は異様だった。
今年25歳になるはずの愛子は、いつもリクルートスーツを着用していた。
スーツはくたびれてはいない。つまりわざわざ買い替えている。
忠司はまるで色気のない愛子をうんざりと見まわした。
黒いスーツは拘りというより、もはや若さへの執念を滲ませる。
「愛子君、出勤してるね?紹介したい人がいるから、ちょっと来て。ついでに忠司君も」
防音には心もとないパーテンションの奥から所長が二人を呼んだ。
「今行きまぁす」
愛子が愛想のよい返事をして立ち上がる。
『ついで』と呼ばれた忠司も不貞腐れながら名刺入れを手に取った。
室内には居たのは50代後半と思しき男性だった。
三つ揃いのスーツがビルに似合わない。
男性は「初めまして」と明るく言うと、くたびれたソファーから立ち上がる。
思ったよりも長身で、ハンサムと言ってよい。声も低く悪くない。
「あなたが田中愛子さんですか。聞いていた通り、若くて聡明そうな方だ」
ひとしきりの挨拶を終え、一同がソファーに落ち着くと、まず男がそんなことを言った。
愛子は恐縮する風を装いながら、ちらりと男の名刺を盗み見た。
井口光一の名前の横に部長の肩書がある。
なるほど大手のコスモス生命保険会社の役職者ともなると、こんなセリフも様になるものだ。
半ば感心したが、好きにはなれそうもないな、と愛子は身勝手なことを考えた。
「実はあなたの噂を聞いて、調査の依頼をしたいのです」
愛子を名指しにするということは、まず浮気の調査というわけではなさそうだ。
愛子がここで働いているのは、就活に失敗してからの「成行き」だった。
5年―仕事の98%は浮気調査で、残りは人か猫の捜索くらいのものである。
井口が持ち込んだ依頼は、イレギュラーなものだった。
「ま、端的に申し上げますと、『都心のエンジェル』について調べていただきたい」
「は?」
思わず疑問の声が漏れた。
『都心のエンジェル』については何となく知っていた。
SNSで話題なっている都市伝説だった。
自殺しようとした人間が、天使の加護で助かるとかなんとか―。
「困惑されるお気持ちはわかります」
井口はうんうんと頷きながらそう言った。
他人事のような言いまわしから察するに、彼も渋々やっているのだろう。
「エンジェルはともかく北新宿で自殺が連続してましてね。不審な事故には警察の調査とは別に、会社で調査を入れることがあるんです。で、この一連の自殺騒ぎついて調べていただきたい」
「はぁ、まぁ何となくわかりました。ただ・・・」
愛子はにわかに眉をひそめて、井口をじっと見つめ返した。
「本件は何をゴールに調査を勧めればよいのでしょうか?」
「簡単に言いますと、一連の事件は偶然だ、自殺者に因果関係はない、と結論づけていただきたい」
愛子はにわかに顔を引きつらせた。つまり悪魔の証明をしろという。
「しかし、お亡くなりになられた方の因果関係など、警察でもなければ調査は難しいのでは?」
やんわりと抵抗して見せたのは忠司だった。
「そんなことはないでしょう」
井口は小馬鹿にしたように、わずかに鼻をならした。
「この噂のポイントは生存者が多いことです。エンジェルとやらに護られてね。そちらにアプローチすれば済むのでは?」
それはそうだ、と愛子も忠司も証明の道筋を見たが、別の問題がある。
「ちなみに、こちらは生存者のリストです」
愛子と忠司の疑問を見透かしたように、井口はA4の資料を机に広げた。
パッと見ただけでも、至れり尽くせりの資料のようだ。
「個人情報となりますので、取り扱いには十分注意してください」
言葉の内容ほど、声のトーンに深刻さはない。
要件は終わったとばかりに、井口は帰り支度を始めた。
パラパラと資料をめくる愛子は、怪訝に眉をひそめた。
この資料以上に何を調べてこいというのか。
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