都心のエンジェル

@kotakomakoma

第0章 都心の空

朝もなお空気の湿る夏、北新宿のビルの上―中村健吾と妻は、屋上の縁に腰かけていた。

結ばれた手は、夜露のように最後まで湿っていた。

東京の街を沈める雲海がわずかに白んだ。夫婦の長かった夜が明けていく。


昨日、最後の金策が尽きた。

真面目すぎた夫婦の会社は、無残な転び方をした。

株主の義父の死、予期せぬ事故、賠償と重なり、妻の善意の借金がとどめとなった。

「終わったよ」

深夜、自分たちと同年代の疲れたアパートに帰ると、中村は妻に告げた。

妻は無感情に「そう・・・」とだけ答えた。

「なぁ、外に出ようか」


江古田から新宿へ―昔よくそうしていたように、どちらともなく手を握った。

半世紀以上酷使してきた二人の体は重い。

濡れた8月の沈黙もまた、重たかった。


夫妻は最後の力を振り絞り、外階段の手すりをよじ登った。

北新宿にあるそれは、かつてオフィスを構えていたことがあるビルだった。

地上よりやや冷ややかな屋上の風に打たれ、二人の汗は引いてく。

屋上に腰かけ、東京の灯を眺めた。夫妻にとって、美しく、無慈悲な街だった。


「そろそろいくか」

妻は声には出さず、手を強く握り返した。

中村は最後に妻の顔を覗き見た。

刻まれた苦労を見て、老けさせてしまったのは自分だと思った。

二人はビルを蹴った。手は固く握り合ったままー。

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