第三章「明晰夢の記憶」
午前四時、世界はまだ眠りの中にあった。街灯の明かりも、まるで空気に飲まれるようにぼんやりとしている。遥希はその時、また夢を見ていた。いや、正確には“明晰夢”だった。夢だと自覚しながら、なおもその世界に取り込まれている感覚。足元に広がるのは黒い灰のような土壌、頭上には星一つない夜空。風もないのに何かが吹き抜けているようで、耳鳴りのような低音が世界に満ちていた。
目の前に校舎があった。自分が通っている燈台学園のはずだったが、何かが違う。色がない。光も影も曖昧で、まるで古びたモノクロ写真の中に迷い込んだようだった。遥希が校舎へ近づこうとすると、その瞬間——視界が焼かれるような赤に染まった。燃えていた。白い壁が、屋根が、掲示板も、花壇も、生徒たちの通う廊下までもが炎に包まれていた。
熱は感じなかった。けれどその場に確かに“痛み”があった。視線を動かすと、校舎の入り口に一人の少女が立っていた。制服姿。だが顔はよく見えない。ただ、そのシルエットと風に揺れる髪の動きだけで、遥希には誰なのか分かった。来栖ひまり——彼女は、燃え盛る校舎を背に、微動だにせず佇んでいた。
「なぜ、君は動かない?」
遥希が口にすると、彼女はゆっくりと振り返った。その顔は夢の中とは思えないほどに鮮明で、そして静かだった。炎の音にかき消されることもなく、彼女の声が遥希の心に届いた。
「動いても、意味がないときもあるのよ。私は、ここに立つことを選んだの」
「燃えてるのに? 君が、燃えるって分かっていても?」
ひまりは微笑んだ。どこか寂しげで、けれど決意に満ちたその表情を、遥希は今でも忘れられない。彼女の声は次の瞬間、炎の音と重なって消え、世界そのものが赤に飲まれていった——
目覚めると、太陽はすでに高く昇っていた。遥希の身体は汗で濡れていて、息が浅かった。喉が渇き、額を拭いながら時計を見た。6時30分。あと一時間もすれば家を出なければならない。だが、さっきの夢の感覚が指先にまで残っていた。燃える校舎。そこに立つひまり。あの意味深な言葉。
通学路を歩く足取りは重かった。頭がぼうっとして、現実がかすれているようだった。だが、校門をくぐった瞬間、その違和感はある一点に吸い寄せられる。見上げると、屋上にいつものように彼女がいた。変わらず立っている。まるで“夢の続き”がここにあるようだった。
教室に入っても心ここにあらずだった。黒板の文字が目に入ってこない。クラスメイトの声が耳をすり抜けていく。そんな状態の中、隣の席の悠一朗が、珍しく話しかけてきた。
「お前、今朝……また夢見ただろ」
その言葉に遥希の心臓が跳ねた。口に出した覚えはない。にもかかわらず、悠一朗は何かを見抜いたような顔をしている。
「……どうして分かる?」
「顔に書いてある。あと、そもそもお前、夢と現実がつながってる奴なんだろ? 昨日のあの子と会ってから、完全に“そっち側”に足突っ込んだ感じするし」
「そっち側って……何の話だよ」
悠一朗はため息をついた。彼の無関心な性格はそのままだったが、その時だけは、ほんのわずかに熱を帯びていた。
「俺には興味ねえけどさ、お前の夢、多分……意味あるぞ。あの子と関係してる」
「ひまりと……?」
「知らない方が楽だぞ。正直。でも、お前は知る方を選ぶんだろうな。もう、引き返せないだろ?」
その言葉が、まるで“選択”を迫るようだった。そういえば、ひまりも言っていた。「夢と現実の違いは、自分で決めること」だと。遥希はふと手元を見た。ノートの余白に、無意識に描かれていたのは、燃え上がる学園のスケッチだった。自分が何を見て、何を感じているのか、それを言葉にすることは難しい。だが確かに、何かが進行している。それを止めることはできないのだ。
放課後、校舎を出ようとしたとき、遥希はふと立ち止まった。足が勝手に、昨日と同じように屋上へ向かっている。階段を上るたびに、夢の中の炎の匂いが蘇るようだった。
扉を開けると、そこにひまりはいなかった。だが、ベンチの上に一枚の紙が置かれていた。風で飛ばないように文鎮で押さえられている。遥希はそれを手に取り、内容を読んだ。
《あなたが見た夢は、あなたが選んだ未来よ。変えられるかどうかは、あなたが知ってるはず。わたしは、あなたの決断を待ってる。》
それは明らかに、ひまりの筆跡だった。ひと目で分かった。あの屋上で彼女が話したような、柔らかく、それでいて決して揺るがない文字だった。
遥希は目を閉じた。夢の中で見た燃える校舎。それを変えられるかどうか——自分にそんな力があるとは思えない。だが、あのとき炎の前で立ち尽くしていた彼女の姿を思い出す。彼女は、選んでそこに立っていた。そして、彼もまた今——選び始めていた。
第三章、完
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