第二章「不登校の生徒会長」
翌朝、遥希はなぜか昨日よりも早く目が覚めた。眠りは浅く、夢と現実の境がまた少しだけ曖昧になっていた。夢の内容は覚えていない。ただ、起きた瞬間に感じた胸のざわめきが、昨日屋上で交わしたひまりの言葉を思い出させる。「命令しない」「選んでくれた」——それらが何を意味するのかはまだ分からないが、確かに彼女と話したことが、遥希の中に“余白”のようなものを残していた。その空白が、むしろ心地よかった。
学園へ向かう道すがら、彼は意識的に周囲の人々を観察してみることにした。電柱の影に立ち尽くす制服姿の学生、無言で前を歩く男女のペア、交差点で信号待ちする親子連れ。その一人一人に、何かしらの“物語”があるはずなのに、日々の流れのなかで埋もれているように思えた。それは昨日ひまりと話して以降、世界が少しだけ違って見え始めたせいかもしれなかった。
教室に入ると、席にはもう何人かが集まっていた。が、その中心には明らかな空白がある。クラスの空気にぽっかりと穴が空いているのだ。その理由を、遥希はもう知っていた。——来栖ひまり。彼女がその場にいないだけで、空気全体の“秩序”が不思議な緊張感に包まれる。教師が入ってくるとその空気は少し和らぐが、それでもどこか落ち着かない。まるで誰もが“見えない存在”に気を遣っているように見えるのだ。
午前の授業が終わると、なる実という女子生徒が教室に入ってきた。端正な顔立ちに、眼鏡の奥からこちらを見透かすような視線。けれどそれは敵意ではなく、どこか“評価”するような感覚を含んでいた。彼女は遥希の机に近づくと、挨拶もなく淡々と言った。
「ひまり会長と、もう話したんだって?」
不意を突かれ、遥希は頷くことしかできなかった。その様子を確認したなる実は、一瞬だけ表情を緩め、しかしすぐに無機質な口調に戻った。
「彼女、授業には出ないけど生徒会長なのよ。一言話すだけで、全校生徒が動く。不思議だと思う?」
「……不思議というより、怖いかな」
そう答えた自分に、遥希は驚いた。けれどなる実は、あっさりと受け止めた。
「それ、正しい感覚。怖さを感じられるうちは、まだ正常。でもね、その怖さが“安心”に変わったら……そのときは、もう手遅れかもしれない」
「手遅れ……って、何の?」
なる実はそれには答えなかった。代わりに視線を生徒会室の方向へ移し、ゆっくりと話し始めた。
「ひまり会長は、たった一言で全校集会を掌握する。“お願いします”とか“協力してくれる?”みたいな言い方だけで、誰もが自分の意志で動くの。誰も強制されてないのにね。だから彼女は、“不登校のまま支配する”生徒会長なのよ。彼女自身は支配してるつもりはないみたいだけど」
その言葉は、遥希の中にじんわりと染み込んでいく。不登校の生徒会長。誰にも命令せず、姿を現すことすら稀なのに、学園全体が彼女の“意志”で保たれている——それは、確かにカリスマとしか言いようがなかった。そしてなる実の言う“怖さ”は、今の遥希にも分かる気がした。
その後、なる実の案内で生徒会室に連れて行かれることになった。理由は教えてくれなかったが、なる実の表情からして、ひまりに何か伝えるべきことがあるのだろうと悟った。
生徒会室は静かだった。ドアを開けた瞬間、空気が変わった。静寂が濃密で、外界と切り離された空間に足を踏み入れたような錯覚すらある。机や棚には一切の乱れがなく、整然と並べられた文書や資料はどれも手垢のついていないような美しさを保っていた。
その奥に、恵理華がいた。彼女はきっちりと制服を着こなし、背筋を伸ばして遥希となる実を見た。表情に曇りはないが、その目の奥には計測するような光が宿っていた。
「新入生、ね。彼女に興味を持った?」
問いかけというより、査問のようだった。遥希は正直に頷いた。
「……正直、まだよく分かってない。ただ、目が離せないっていうか」
「それが“呪い”の始まりなのよ」
恵理華の言葉は静かだったが、空気を切り裂くような鋭さがあった。そのとき、なる実が口を挟んだ。
「恵理華は、秩序を重んじるの。ひまり会長の“沈黙の支配”が許せないのよ。でも彼女は、命令してない。ただ、存在するだけ。それが問題なのか、それとも理想なのか、答えは一つじゃない」
遥希は思った。ここは、生徒会室でありながら“裁判所”のようでもあった。ひまりという存在をどう捉えるかで、すでに学園内に意見の裂け目が生まれている。それぞれが、自分の正しさで彼女を測ろうとしている。そのことが、彼女の孤独を深めているのかもしれない——ふと、昨日ひまりが口にした「私はここにいるだけでいいって、よく言われるの。でもそれって、とても孤独なことなのよ」という言葉が、思い出された。
そのときだった。机の上に置かれたスマートフォンが震えた。なる実が手に取り、画面を見る。ほんの数秒後、彼女の表情がわずかに変わった。警戒と驚き、そして納得が一瞬で入り混じる。
「……始まるみたいね、“白光”が」
遥希は思わず聞き返した。
「白光……?」
なる実は頷き、視線をひまりの不在の席へと向けた。その椅子は誰も座っていないのに、まるでそこに人がいるかのように、空間そのものが引き締まっていた。
「——君、候補でしょ?」
その一言が、遥希の中に何かを刺した。夢の中の言葉。「君は、見届け人だ」——あれは、偶然の産物ではなかったのかもしれない。
第二章、完
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