白光の学園と沈黙の女王

mynameis愛

第一章「夢の中の声」

 春の朝、まだ風は少し肌寒かったが、燈台学園の正門前には桜の花びらが静かに舞っていた。吐く息にほんのりと白さが残るその空気の中で、遥希は一歩、足を踏み出す。ネクタイの締まり具合を確かめる指はわずかに震えていて、心は決して穏やかではなかった。転校初日。慣れない制服の襟元を直しながら、遥希は夢の余韻を振り払おうとしていた。

 あの夢。白い世界に、誰かの声が響いていた。「君は、見届け人だ」——それだけをはっきりと覚えている。他には何も。顔もない。姿もない。声だけが、冷たく、けれど不思議な温度を持って胸に残っている。

 足元に一枚、花びらが落ちる。それを見て、遥希はふとため息をついた。夢なんて、意味があるとは思えない。だけど、今日という日が、その夢とやけにリンクしている気がしてならなかった。予感のような、不安のような、どこか居心地の悪い胸騒ぎ。

 校門をくぐると、周囲の生徒たちはまばらに挨拶を交わしていた。笑顔の生徒、緊張している生徒、どこか他人行儀な空気が漂っているのは進学校らしい厳格さゆえか。だが、その中にひときわ目を引く存在があった。

 校舎の上——屋上。そこに立つ人影が見えた。春の陽光を受けて、風に髪をなびかせるその姿は、まるで風景の一部のように静かで美しく、しかし明らかに“異質”だった。誰も彼女のことを気にするふうはなく、それでいて、彼女がいることでこの学園全体が保たれているような、そんな錯覚さえ覚える。

「……いる。」

 遥希は呟いた。その声に、自分でも驚いた。あの夢の中で、何度も見た後ろ姿。白く霞む光の中で、彼女は確かにそこに立っていた。そして——彼女が振り返る。視線が遥希のものと交わった、ような気がした。

 次の瞬間、チャイムが鳴り響く。耳の奥がわずかに痛むような、高く澄んだ音だった。遥希は慌てて歩を進める。転校生が遅刻では笑えない。けれど、足は重い。どこか、現実の中を歩いているはずなのに、夢の続きを見ているような錯覚が続いている。

 教室の扉を開けると、全員の視線が彼に向いた。静まり返った空気。黒板の前には担任と思しき中年教師がいて、名簿を手にしていた。

「君が、藤崎遥希くんか。今日からこの2年C組に転入だ。簡単に自己紹介を頼む」

 遥希は一歩前に出た。声を出そうとするが、あの夢の記憶がまたもや頭をよぎる。「君は、見届け人だ」——それが、どういう意味かも分からぬまま、口が勝手に動いた。

「……あの……あなた、夢に……出てきた」

 教室がざわついた。誰に向かって言ったのかすら、曖昧だった。けれど、ただ一人、教室の後ろの席から立ち上がった女生徒が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。長い黒髪に、端整な顔立ち。制服も乱れなく着こなしているのに、どこか“生徒”という枠に収まりきらない威圧感を持っていた。だが、不思議と恐くはない。むしろ、安心感さえあった。

「ふふ……そう。でも、まだ思い出さない方がいいわ」

 微笑みながらそう言った彼女の声が、遥希の心にすっと染み込む。耳ではなく、心の奥底で響くような感覚だった。

 ——彼女は誰だ? なぜ、夢と現実の境界がこんなにも曖昧になる?

 遥希の“転校”は、始まりに過ぎなかった。




 教室のざわめきはすぐに教師の一喝で沈められたが、遥希の心の中の波は静まらなかった。彼女の微笑、その声の響きが頭から離れない。けれど、それ以上に奇妙だったのは、誰も彼女の存在に驚いていないということだった。むしろ、自然なように受け入れている。それがまるで、“彼女がここにいることが当たり前”であるかのように。

「彼女は……」遥希は隣の席に座っていた男子に小声で尋ねた。「今の子、誰?」

 その男子は、面倒そうに顔も上げずに答えた。「……知らないのかよ。生徒会長だよ、あれが」

「えっ?」

「生徒会長、来栖ひまり。……まあ、教室に来たの見るの、今年初めてだけどな」

 その言葉に、遥希の中で何かが引っかかった。生徒会長。あの圧倒的な存在感を持つ彼女が、クラスに顔も出さず、それでも全校生徒が彼女を認識している? 違和感が積もる。だが、不可解なのはそれだけではなかった。

 昼休み、遥希は気づけば屋上へと向かっていた。誰に聞いたわけでもない。夢の中で見た“風景”が、そのまま現実の地図の上に重なっているような感覚だった。鉄扉は閉まっていたが、押すと簡単に開いた。誰かが鍵をかけていないのか、それとも……あえて開けているのか。

 屋上には、風が吹いていた。ざわりと制服の裾が揺れ、まるで歓迎するように花びらが巻き上がる。その中央に、やはり彼女——ひまりが立っていた。背を向けていたが、遥希が来たことに気づいていたのか、ゆっくりと振り返る。

「来ると思ってた」

 その言葉が、まるで“導かれた”という感覚を決定づけた。遥希は口を開いたが、言葉が出ない。ただ、彼女の目が、柔らかく、しかし揺るがぬ光で自分を見据えているのがわかった。目を逸らしたくなるほど、正直で、優しくて、強い。

「あなた、まだ全部は思い出していないみたいね。でも、それでいいの。急がなくていいのよ」

「……思い出すって、何を?」

 ひまりは問いに答えず、代わりに遥希の隣のベンチに腰を下ろした。静かに、でも当然のようにそこに在る。命令でも、誘導でもない。ただ“そこにいてくれる”という存在感だけで、遥希は隣に座るしかなかった。

 風が二人の間を通り抜けていく。遠くに、校庭で遊ぶ生徒たちの声が微かに聞こえる。日常の音が、まるで背景として用意されたBGMのように遠く思えた。

「私はね、ここにいるだけでいいって、よく言われるの。でもそれって、とても孤独なことなのよ」

「孤独……?」

「みんな、期待するの。“何かしてくれるはずだ”って。でも私は、命令しない。指示もしない。ただ、見て、聞いて、感じるだけ。それが私の“やり方”なの」

 その声には、悲しみも誇りも混ざっていた。彼女が纏う雰囲気は、カリスマという言葉では収まりきらない。もっと深くて、もっと静かで、それでいて、抗えない引力のような何か。

「じゃあ、さっきの夢も……」

 遥希が口にすると、ひまりは小さく首を振った。

「夢と現実の違いなんて、あなたが決めることよ。私はただ……あなたが“選んでくれた”ことを嬉しく思ってる」

 その意味はわからなかった。だが、遥希の中で何かが静かに共鳴していた。この人のそばにいたい、この人の言葉をもっと聞きたい。そう思わせるのに、彼女は何も“して”いない。ただ、そこにいた。それだけなのに。

 チャイムが鳴った。屋上に響き渡るその音が、二人の静寂に終わりを告げる。

「行きなさい。今日のところは、それだけで十分」

 ひまりの声に促されて、遥希は立ち上がった。屋上の扉を開くとき、振り返ったが、彼女はもう遠くの空を見ていた。まるで、誰かの未来を眺めているかのように。

 ——君は、見届け人だ。

 あの夢の声が、再び遥希の耳に蘇った。まるで、その“君”が、今の自分だと決定づけるかのように。

 第一章、完

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