第9話:次を継ぐ者たち
~静かなる本気~
火曜の深夜。フューチャーテック大崎本社の営業部エリアには、蛍光灯の白い光がぼんやりと灯り、品川と目黒の二人だけが残っていた。壁の時計が秒針を刻む音が、不自然なほど大きく響く。その静けさを破るように、FAX複合機が低く唸り、コピー用紙を一枚、ゆっくりと吐き出した。
「……来たか」品川はキャスター付きの椅子を器用に滑らせ、複合機の前に陣取った。その動きは、まるでスタートダッシュを決める陸上選手のようだった。まだ温かいコピー用紙を、勢いよく手に取る。それは、各店舗から送られてくる週間売上報告だった。「よっし!周東店、クリア!」
「次の目標は……翔太くんの城北店、だな」ふと、品川の声のトーンが変わった。そこには、いつもの軽さの奥に、本気の気配がにじんでいた。目黒がおずおずと尋ねた。「翔太くん、ですか……以前、少しだけ話に出ていたような。確か、社長の息子さんの」
「そう」品川はコピー用紙を指先でもてあそびながら、淡々と口を開いた。「大崎社長の三男で、俺の同期。二人で周東店にいたときは、毎日バカ騒ぎしてた」声にどこか懐かしさがにじむ。だが、すぐにそのトーンが変わった。「でもな、あいつにだけは、絶対に負けたくないんだ。仕事では、な」
「……ここ超えたら、俺、ちょっと泣くかも」品川はそう言って、おどけたように目元をこする真似をした。だが、その横顔には本気の色がにじむ。目黒はその表情を見つめながら、翔太という人物と品川の間にある、言葉にしがたい何かが、二人のあいだにあると感じていた。
数日後、地元ケーブルテレビの経済番組で、フューチャーテック大崎の特集が放送された。画面には、パーツを手に語る品川の姿。そしてその隣で、真面目な表情でパソコンに向かう目黒の姿が、資料映像の中にほんの数秒だけ映っていた。
週末、目黒が実家近くの商店街を歩いていると、「あら、この間のテレビ、見たわよぉ」と、近所のおばさんに声をかけられた。その夜、祖母はローカル情報誌の番組紹介記事の切り抜きを、まるで宝物のように見せる。目黒は照れくさそうに笑いながらも、どこか誇らしげだった。
ケーブルテレビの反響は、想像を遥かに超えていた。放映直後から、ネット通販部には問い合わせと注文のメールが殺到し、パソコンの画面は次々と更新されていく。新着を知らせる通知音が、止むことなく鳴り響いていた。
「いやー、顔出しOKにしといてよかったっす!」品川は声を弾ませた。その喜びも束の間、本社オフィスは新たな戦場と化していた。デスクの上には空のカップ麺容器が転がり、伝票の束が整理されないまま散らばっていた。
~静かな革命~
鳴りやまない電話。画面を埋め尽くす、メールの洪水。目黒が導入したフォルダ分けとテンプレートをもってしても、増え続ける問い合わせには追いつかなかった。「いつになったら連絡が来るんだ」「商品はどうなっている」といったクレームが、受信トレイを侵食しはじめていた。
「マジでヤバい……これは、かなりヤバい……」品川は珍しく弱音を吐いた。その手には、出荷待ちリストが握られている。「すまん、目黒くん! 俺、これから工場に行って、出荷の手配で格闘してくるから、メール対応は全部任せた!」言うが早いか、品川は嵐のようにオフィスを飛び出していく。
残された目黒は、パソコンのモニターに次々と表示される「未読」の文字を前に、呆然と立ち尽くすよりほかなかった。「このままじゃ、文化祭じゃなくて……ただの火事ですよ、品川さん……」その呟きは誰に届くでもなく、雑然としたオフィスに虚しく吸い込まれていった。
手動でのメール対応に限界を感じた目黒は、焦燥感に駆られながらも、必死に解決策を模索していた。額ににじむ汗を、手の甲でぬぐう。深夜、残業も終盤に差し掛かったころ、目黒はインターネットで検索をかけ、やがて一つのフリーソフトに行き当たった。
その名も『返信くん』。個人の開発者が趣味で作ったらしく、飾り気のないシンプルなインターフェースだった。だが、特定のキーワードに応じて定型文を自動返信する機能は、まさに目黒が求めていたものだった。藁にもすがる思いで、開発者の連絡先にメールを送る。
「業務で使用したいが可能か。その場合、ソフトのクレジットを明記し、使用感に関する詳細なフィードバックを提供する。ついては、不具合には優先的なサポートをお願いしたい」という内容だ。送信ボタンを押した指が、わずかに震える。
翌朝。出社して真っ先にメールをチェックすると、意外にも『返信くん』の開発者から、すでに返事が届いていた。「フューチャーテック大崎さんに関心をもっていただいた光栄です。サポートについても優先対応いたしますので、ぜひお使いください。」
早速『返信くん』を導入し、目黒は問い合わせの種類に応じた返信テンプレートをいくつか設定する。例えば、「ご注文ありがとうございます。現在、ご注文が殺到しており、順次対応しております。」といった具合だ。これで、少なくとも一次対応は即座に返せる。顧客の不安も、少しは和らぐはずだ。
その日の夕方、工場での仕事を終え、ワイシャツの腕まくり姿のまま戻ってきた品川は、目黒が一心不乱に『返信くん』のログを確認しながらキーボードを叩いている姿を見て、目を丸くした。「え、なにこれ?目黒くん、なんかすごいことしてない?」
目黒が事情を説明すると、品川は口をあんぐりと開けたまま、しばらく固まっていた。だが、やがて吹き出すように笑いながら叫んだ。「神か!目黒くん、神すぎん!?……もう本当に文化祭じゃない?トラブルを、知恵と工夫で乗り越える感じ、まんま文化祭じゃん!」
興奮冷めやらぬ様子でまくし立てる品川に、目黒も思わず頬が緩む。「文化祭、たぶん今がピークです。本番に向けて、最後の追い込みですね」窓の外は、いつの間にか夕闇に染まりはじめていた。
~次を継ぐ者たち~
再び、火曜の深夜。先週と同じように、FAX複合機が各店舗から送られてくる売上報告を出力する。いつもなら真っ先に駆け寄る品川が、なぜかその場を動かなかった。代わりに目黒が取りに行き、品川のデスクにそっと置く。二人は無言のまま、固唾を飲んで数字を見つめた。
「……翔太くんのとこ、抜いた」ぽつりと、品川が呟いた。その声は、いつになく静かで、感情の抑揚がなかった。目黒も信じられない気持ちで、報告書の数字を再確認する。「ネット通販だけで……ですか」ネット通販部の売上が、城北店をほんのわずかな差で上回っていた。
しばらくの沈黙の後、品川がおもむろに立ち上がった。「……電話、するか」スマートフォンを手に取り、発信ボタンを押す。数コールの後、相手が出たようだ。品川は受話器を耳に当てたまま、じっと正面の壁の一点を見つめている。その横顔は、どこか少年のような無邪気さを帯びていた。
「……ああ、俺。うん、見たよ、FAX。まさか翔太くんが、ネット通販に抜かれるとはね。……油断したんじゃないの?」電話の向こうの翔太の声は聞こえないが、品川の返答から、その会話の断片が伝わってくる。
「こっちは、ちょっと本気出しちゃってさ。……ああ、そうだな。社長、見てると思うよ、この数字。……え?社長って、そういう細かいとこまで見てんの?……へえ、『次』を継ぐ人間なら、見られて当然、ね。はは……らしいや、翔太くんは。」
そこで一旦言葉を切った品川は、ふっと息を吐き、わずかに口元を緩めた。「まあ、来週も負けないから。覚悟しておいてくれよ」そう言って、品川は通話を終えた。スマートフォンを静かにデスクに置く。カタン、という小さな音が、やけに大きく響いた。
「社長の“次”って話、やっぱりあるんですか?」目黒が尋ねると、品川は肩をすくめた。「さあね。俺はただ、文化祭を続けたいだけだけど」そう言うと、品川は売上報告の用紙をきれいに伸ばし、複合機の元の場所へと戻した。
目黒は、窓の外に目をやると、街の灯りが、まるで星空のように瞬いていた。この熱狂が、いつか終わりを迎える日が来るのだろうか。いや、今はまだ、考えなくていい。ただ、この瞬間を、仲間と共に味わい尽くすだけだ。
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