第7話:混沌の中に、灯るもの
~ここから始まる~
蝉の声が遠ざかり始めた、九月半ばの日曜日。目黒は軽自動車のハンドルを握り、カーナビに導かれながら「目的地」へと向かっていた。後部座席には、衣類や食器など最低限の荷物を詰めたダンボール箱が隙間なく詰め込まれていた。
フューチャーテック大崎本社の駐車場に車を滑り込ませると、事務所のドアから品川が顔を出した。「お疲れっす!すみません、他の社員も来るはずだったんですけど……」黒縁メガネにTシャツ姿の品川は、バツの悪そうな笑みを浮かべた。
「休日なんで、みんな遊びに行っちゃって。連絡つかなくて」広い駐車場には営業車が数台と、年季の入ったスイフトが一台。田園風景の中に建つ本社は、畑に囲まれ、のどかな空気が漂っていた。
周東店で過ごした一ヶ月半の日々が、ふと脳裏をよぎる。西台店長の細かな指導。三田の優しい励まし。千石の真摯な姿勢。どれも、自分を支える土台になっていると感じた。新しい環境を前に、期待と不安が胸の奥でせめぎ合っていた。
本社の駐車場を出て、品川の車の後ろを走りながら、目黒は新居へと向かった。やがて現れたのは、古びた五階建ての県営住宅。灰色のコンクリート外壁には無数のひびが走り、ベランダの手すりは赤茶けた錆に覆われている。
「ここ。社長のツテでさ、格安で借りられたんだよ。ラッキーでしょ?」品川はそう言って笑ったが、その目元がわずかに曇った。「ただ、エレベーターが……」品川は申し訳なさそうに続けた。「ないんですよ」
目黒は後部座席に積まれたダンボールの山に目をやり、ため息をついた。「五階ですよね……?」残暑の強い日差しが容赦なく照りつけるなか、二人は黙々と荷物を運び始めた。三往復目を終えるころには、目黒の息はすっかり上がっていた。
最後の段ボールを運び終える頃には、陽が傾き始めていた。汗で湿ったTシャツを着替えた目黒は、ベランダへ出て手すりにもたれた。眼下には一面の田園風景が広がり、夕陽を背にした子どもたちが、自転車で家路を急いでいく。
夕焼けに染まり始めた雲が、遠くの山並みを覆い、空を炎のように染めていく。風に乗って田んぼの匂いが届き、目黒はその情景にしばらく見とれた。そして、ぽつりと呟く。「ここから始まるんだ」
~ネット通販部という戦場~
翌朝、目黒はフューチャーテック大崎本社のドアをくぐった。昨日とは打って変わり、事務所内は、ざわめきと熱気に包まれていた。電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、スタッフ同士の早口な会話。
周東店の落ち着いた雰囲気とは対照的な、文化祭前夜の準備室のようなざわめきが、ここにはあった。「おはようございます」目黒が挨拶すると、品川が立ち上がって手を振った。「おう、目黒くん、こっちこっち」
品川に案内され、事務所の奥へと進む。棚に括りつけられた手書きの札には、「ネット通販部」の文字。その下に並ぶ長机とパイプ椅子二つ。目黒に割り当てられたのは、品川の隣の席だった。
「で、これが目黒くんの相棒な」品川が指さしたのは、古めかしいベージュ色のタワー型デスクトップパソコンだった。黄ばんだ筐体に、薄汚れたキーボード。目黒が唖然としていると、品川は得意げに胸を張った。
「こいつは“まどかちゃん”。見た目はアレだけど、中身は俺が組んだカスタム仕様でさ。メモリ32GB積んで、オーバークロックもしてあるから、そこらの最新機より速いんだぜ」なぜ「まどかちゃん」なのか。目黒には、質問する勇気が出なかった。
「これが共有メールアカウント。メールが来たら、僕が適当に振り分けるんで、対応よろしく」品川は画面を操作し、「品川」「目黒」と名前のついたフォルダを開いてみせた。その中には、未整理のメールが何百件も雑多に溜まっていた。
「じゃあ、返信方法を説明するね。ええと……」品川が早口すぎて、目黒はメモを取るのに必死だった。一通り説明を終えると、「じゃ、あとは任せた」とだけ言って、品川はそっけなく自分のパソコンに向き直った。
一時間後、目黒は頭を抱えていた。メールの種類があまりにも多岐にわたり、製品に関する質問、見積もり依頼、発注手続き、納期の問い合わせ、不具合報告、果てはクレームまで、すべてが一つの受信箱にごちゃ混ぜで放り込まれていた。
品川は経験で瞬時に分類しているようだったが、初心者の目黒には、その判断基準がまるで見えてこない。昼休憩を挟んでも、処理の終わりは見えず、気づけば腕時計は午後五時を指していた。目黒は、深いため息をついた。
「メールって、こんなに多いとは思いませんでした……」目黒が疲れた声で漏らすと、品川も大きくため息をついた。「まあね。うちは実店舗は五つだけど、ネット通販は全国対応だから。そりゃ捌ききれなくもなるさ」
品川はポケットから飴を取り出し、目黒に差し出した。「まだまだ残業あるからさ、これでも舐めて頑張って」それからさらに五時間。午後十時過ぎ、ようやくメール処理がひと段落した。目黒は肩を落とし、ぐったりした様子でパソコンの電源を落とした。
「お疲れさま」品川が声をかけてきた。「初日から残業させちゃって、ごめんね」そう言うと、机の引き出しから、アニメ『STEINS;GATE』のDVD-BOXを取り出した。「これ、借りてく?」と、どこか得意げに差し出してくる。
「え?」と目黒が首を傾げると、品川はドヤ顔で言った。「会社の社風を理解するには、これ見るのが一番。未履修なら必見!」その表情は、まるで文化祭準備を仕切る委員長のようだった。
目黒はその空気に引き込まれ、思わず笑みがこぼれた。DVDボックスを受け取りながら、周東店とはまるで別世界に来たのだと実感する。だが、この混沌とした空気にも、少しずつ馴染めそうな気がしていた。
~小さな達成感の夜~
翌朝から、目黒は「まどかちゃん」に向かい、黙々とメール処理に取り組んでいた。前日までのメールをノートに書き出していく。そうするうちに、同じようなクレームが、何通も届いているのに気づいた。
「品川さん、ちょっといいですか?」目黒が声をかけると、自分のパソコンに向かっていた品川が顔を上げた。「ん? どうした?」目黒はノートを差し出す。そこには、最新型グラフィックボードに関する不具合報告が、日付順にまとめられていた。
「これ、同じ件で五件もクレームが来ているようなんですが……」目黒の指摘に、品川は一瞬考え込むと、苦笑まじりに答えた。「そうなんだよね。新商品だから、バグが多くてさ。メーカーには報告済みなんだけど、なかなか対応してくれないんだよ」
メールの返信を続けるうちに、目黒は顧客対応に一貫性がなく、かえって混乱を招いていることに気づいた。しばらく迷った末、思い切って口を開く。「……あの、自分に、メールの振り分けを任せてもらえませんか?」
「振り分け?」品川が目を丸くする。目黒は考えを整理しながら、丁寧に説明した。「たとえば、問い合わせ・サポート・クレームは私が担当して、見積もり・発注は品川さんにお願いする形にすれば……もっと効率よく対応できると思うんです」
品川は少し考え込んだ様子だったが、すぐに顔を上げた。「いいかもしれない。やってみようか」その決断の速さに、目黒は少し驚いた。「あの、本当に任せてもらえるんですか?」目黒は、自分の提案がすんなり通ったことに戸惑いを隠せなかった。
「うん。どうせ今のままじゃ捌ききれないから」品川はあっさり答え、「まあ、試してみようよ」と続けた。早速、目黒はフォルダの整理に取り掛かった。来客メールを「問い合わせ」「サポート」「クレーム」「見積」「発注」と、種類ごとに分けていく。
そして、目黒は返信テンプレートも作成し始めた。「不良品」に対する謝罪と交換の流れ、「納期遅延」に対する説明と代替案の提示。それらを整理し、共有フォルダに保存した。品川はその作業を横目で見ながら、「おぉ、いいね」とうなずいた。
昼休憩を挟んで、午後も作業は続いた。目黒は黙々と手を動かし、夕方になってようやくメールフォルダの整理を終えると、「ふぅ……」と大きく息を吐いた。「すごいね。俺がやってたら、一ヶ月はかかったよ」品川が笑顔で言った。
翌日から、新しい体制でのメール対応が始まった。目黒は「問い合わせ」「サポート」「クレーム」を、品川は「見積」「発注」をそれぞれ担当する。あらかじめ用意したテンプレートのおかげで、初心者の目黒でもスムーズに返信できるようになった。
品川は椅子の背もたれに身を預け、真剣な表情でぽつりと漏らした。「目黒くん、神かよ……実はさ、他の仕事もめちゃくちゃ溜まってて。でも、これで少しは手がつけられそう。本当に助かったよ」
残業続きの一週間を終えた金曜の夜。目黒は疲れた体を引きずるように、アパートのベランダに出た。缶ビールを片手に星空を見上げる。虫の声が心地よく響き、街の灯りがぽつぽつとともり始めている。夜風が、汗ばんだ肌をやさしく撫でていった。
「ちょっとずつ面白くなってきた」教壇に立つのとは違う。それでも、自分の力で何かを動かし、誰かの役に立てる実感が、少しずつ形になってきていた。その感触は、小さな達成感として、胸の奥にじんわりと残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます