第5話:え、本社じゃなかったの?
~予定通りにはいかない~
夏の陽が窓から差し込み、床に濃い影を落としている。目黒は涼しいエアコンの風を感じながら、喫茶店のテーブルに腰を下ろしていた。ほどなく、ドアが開く音がして、勝英学院の小岩(こいわ)が入ってくる。今日も変わらぬダブルのスーツ姿で、「お待たせ」と軽く会釈して席に着いた。
コーヒーが運ばれてくると、小岩はカップに砂糖を入れ、それから目黒の方へ身を乗り出した。「それで、考えは決まったかい?」目黒はカップに視線を落とし、わずかに間を置いて答えた。「はい。フューチャーテック大崎へ行くことにしました」
「そうか」小岩の表情が、一瞬だけ固まった。だがすぐに、穏やかな微笑みを浮かべる。「君の決断なら、応援するよ」それは計算された親切ではなく、素直な言葉に聞こえた。目黒は緊張が解けるのを感じて、小岩に内定辞退のお詫びと、感謝の気持ちを伝えた。
「ところで、秋葉先生はどうするんだい?」コーヒーを一口飲んでから、小岩が尋ねると、目黒は少し考えてから答えた。「まだ、決まってないみたいです。お子さんが小学生なので、焦ってはいるみたいですが……」それを聞いた小岩は静かに「そうか」と呟き、ずっと何かを考えていた。
コーヒーを飲み終え、店を出ると、小岩は駐車場に停めたレクサスに乗り込んだ。エンジンをかけ、窓を少し下げる。シートに深く身を預けながら、目黒に視線を向けて穏やかな声で言った。「もし何かあったら、いつでも連絡してくれ。君なら、いつでも歓迎するよ」目黒が深く頭を下げると、レクサスは、静かに駐車場を後にした。
数日後、塾の講師室で秋葉が、パソコンの画面に向かって、何かを打ち込んでいる。「お疲れさまです」目黒が声をかけると、秋葉は椅子をくるりと回し、久しぶりに笑顔を見せた。「あ、目黒先生」そして少し照れくさそうに口元を緩めて言った。「実は、決まったんだ」
「え?」目黒が思わず聞き返すと、秋葉は苦笑いを浮かべながら答えた。「勝英学院へ行くことにしたよ。小岩さんから連絡があってさ。新校舎の立ち上げに人を探してたらしくて、小論文の講座を任せてもらえることになったんだ」
「それは良かったです!」目黒は素直に喜んだ。秋葉の顔には、ふっと力が抜けたような柔らかい笑みが浮かんでいる。「君のおかげだよ」秋葉は軽く息をつき、安堵の表情を浮かべたまま、画面に目をやった。
それから一時間後、秋葉が授業に出かけると、目黒のスマートフォンが震えた。表示されたのは見知らぬ番号。「もしもし、目黒です」少し警戒しながら応答すると、やけに明るく、よく通る声が返ってきた。「あ、目黒くん?フューチャーテックの品川です。お世話になります!」
「で、さっそくなんすけどね、ちょっと状況が変わりまして」品川の声は、どこか慌ただしい。「本来なら会社で手配するはずだった目黒くんのアパートなんですけど、えーと、ちょっとした手違いがありまして……」
「……はあ」目黒はなんの話か分からず、曖昧に言葉を返す。すかさず、品川が早口でまくし立てた。「で、ですね、そのアパートの件が片付くまでの間、目黒さんのご実家から通える周東(しゅうとう)店の方で、研修って形でお願いできませんかね?」
「周東店?」目黒は問い返す。本社のある周南(しゅうなん)とは、かなり離れている。品川は笑いをごまかすように声を弾ませた。「そうそう、周東店。……本社勤務の予定だったんですけど、住む場所がないと困っちゃいますもんね?」
目黒はしばらく沈黙したあと、額に手を当てながら、「……分かりました」と答えた。聞いていた話とは違う展開に、不安が募る。けれど文化祭の準備のようなものなのかもしれない。だからこそ、面白いのだと、目黒は自分に言い聞かせた。
「あざっす!助かります。アパートの件が決まったら、すぐに連絡します。で、周東店には10時に来てください。一緒に仕事できるの、楽しみにしてますんで」そう言うと、品川はこちらの返事を待たずに電話を切った。
電話が切れたあと、目黒は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。「なんか、嫌な予感がする……」そう呟いたものの、不安と紙一重のような期待が、胸の奥で静かに脈打っていた。
~知らされていない配属~
8月1日、朝9時30分。目黒は周東店の前に立っていた。昨晩アイロンをかけたワイシャツと、清潔感を出そうと髪まで短く切ってきた。品川に言われた時間より三十分早く到着したが、駐車場には営業車のほか、自家用車が三台、すでに停まっていた。
店に入ると、ロングヘアの女性がやや甲高い声で「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。目黒の顔を見るなり、少し目を見開いて言った。「あれ?以前ノートパソコンをご購入いただいた方ですよね……なにか不具合でもありましたか?」
「品川さんに言われて、今日からこちらで働くことになりました、目黒と申します」目黒が頭を下げると、女性は一瞬黙ってから、首をかしげた。「え……そうなの?うーん、聞いてないなぁ……」少し困ったように、店の奥を振り返る。
店内は無機質な蛍光灯に照らされ、棚にはパソコンパーツが整然と並んでいる。女性は奥の事務スペースに向かい、髪を短く切ったがっちりした体型の男性に何かを耳打ちした。男性は一度目黒をちらりと見てから、首をかしげつつ店の電話を取った。
「お疲れ様です。周東店の西台(にしだい)ですけど、品川くん、います?」しばらく沈黙があり、どうやら電話が繋がったようだった。「ああ、周東店の西台だ。……目黒って子が来てるんだけど、何か聞いてる?」
西台の表情が次第に曇っていく。「……またか。そういうのは、ちゃんと事前に連絡してくれって言ってるのに」しばらく品川の話を聞いた後、諦めたように受話器を置いた。
聞き耳を立てていた目黒が、おずおずと頭を下げる。「すみません……」西台は深くため息をついた。「いや、君が悪いんじゃない。品川くんがまた、勝手なことをしてくれて……まあ、アパートの件も、忙しくて探すのを忘れてたんだろ。」
そのとき、店の奥にある階段から若い男性が降りてきた。年の頃は二十歳前後。髪は無造作に整えられ、着こなしもごく普通だが、どこか親しみやすい雰囲気をまとっている。「あ、いらっしゃいませ」階段を下りきったところで目黒に気づき、にこりと笑って足を止めた。
「ああ、千ちゃ。今日からこの子、目黒くんがうちで研修だってさ。品川くんの指示でね」西台は苦笑して肩をすくめた。千石(せんごく)は少し首をかしげながらも、満面の笑みで手を差し出す。「千石です。みんなからは"千ちゃ"って呼ばれてます。よろしく!」
「目黒です。よろしくお願いします」握手を交わすと、千石の手は意外と力強かった。続けて、西台の横に立っていた女性が自己紹介をする。「私は三田(みた)、三田恵美。ここでは経理を担当してます。よろしくね」
「ところで、うちの出勤時間は8時半なんだけど」西台が腕時計を見ながら言う。「品川くん、そこも間違えてたな」目黒は再び頭を下げた。「すみません……」まさか、こんな形で新しい生活が始まるとは、目黒も想像していなかった。
~現場に立つ~
西台から「まずは電話対応と商品棚の配置を覚えてくれ」と指示され、目黒は千石の後ろをついて回った。店内を巡る中で、千石から売り場構成や在庫管理システムについて簡単な説明を受けた。
昼休みになり、三田が何気なく話しかけた。「そういえば、目黒くんって、前にうちでパソコン買いましたよね?」目黒は一瞬、三田の顔を見てから答えた。「あ、はい。半年くらい前に、塾で使う用に」
「やっぱり、思い出しました!見たことあるなって思ってたんです。最新モデルを指名で買った方は、けっこう印象に残ってて」三田は少し嬉しそうに笑った。「あの時はお客さん、今は同僚。なんだか不思議ですね」
その言葉に、目黒は少し救われた気がした。見知らぬ場所に、まったくの一人で放り込まれたわけじゃない。どこかでつながっている。そう思うと、ふっと肩の力が抜けた。
一日目は、終始緊張の連続だった。商品知識の不足、電話応対の要領の悪さ、パソコン用語への戸惑い。どれも、塾の教壇に立っていた頃とはまるで別の世界だ。それでも目黒は、新しい空気を自分の中に取り込もうと、必死に食らいついた。
数日が過ぎるころには、目黒も店内の雰囲気に少しずつ慣れはじめていた。朝は西台や三田より早く出勤し、店内の掃除を済ませる。閉店後には、黙々と棚の整理をする。「塾講師の習慣が抜けないな」と西台は笑ったが、その口調はどこか嬉しそうだった。
自宅では、寝る前にパソコンをにらめっこしながら、スペック表を頭に叩き込もうとする。CPUの型番、メモリの種類、ストレージの容量。かつて教える側だったはずが、今は覚えることで精一杯だ。
一週間が経ったある朝、目黒は自作の一覧表を印刷して持参した。モニターの解像度、応答速度、パネルタイプ、そして価格。主要なスペックを並べた比較表だ。手渡された西台は、思わず「おっ」と声を漏らし、意外そうな表情で紙を見つめた。
「これ、自分で作ったのか?」西台の問いに、目黒は少し遠慮がちにうなずいた。「はい。店内の商品を比較できたらと思って……」西台は何度かうなずきながら、「これ、助かるな。お客さんに説明しやすい」と声に出す。そして、顔を上げて聞いた。「他の商品も、同じように作れるか?」
「はい、やってみます」目黒は、小さな達成感を味わった。自分の行動が誰かに認められる。その感覚は、やはり嬉しかった。電話対応やレジ操作はまだぎこちない。それでも、自分にできることがある。そう思えた瞬間だった。
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