第4話:新しい文化祭を探して

 ~しっくりこない理由~


 塾の閉鎖まで、あと一ヶ月を切っていた。講師室に差し込む午後の光が、細長い影を床に落としている。目黒は赤ペンを置き、小さく息を吐いた。採点済みのプリントが、机の上で山になっている。ふと、視線を窓の外へ向けた。


 数日前、喫茶店で会った勝英学院の小岩の言葉が、いまだ耳に残っている。「決まりだ」という声が、妙に記憶に焼きついていた。駅前の新校舎。将来の校舎長候補。安定したレールに乗れるはずだった。それなのに、胸の奥には、ざらつくような違和感が残っていた。


「どうした、目黒先生」給湯室から戻ってきた秋葉が、マグカップを片手に声をかけてきた。「浮かない顔してるな」口調は穏やかだが、視線は鋭い。目黒はためらがちに口を開く。「いえ、この間お話しした勝英学院の件なんですけど、給料も今より良いですし……でも、なんというか……」


 秋葉は椅子に腰掛け、紅茶のティーバッグを取り出しながら、目黒の顔を見た。「しっくりこない?」目黒がうなずくと、秋葉はゆっくり言葉を続ける。「まあ、焦って決めることはないさ。……ただ、目黒先生は、これからどうしたいんだ?」


 その問いに、目黒はすぐに答えることができなかった。教えることは確かに好きだ。生徒の成長を見るのも、やりがいがある。ただ、それだけじゃどこか物足りなさを感じていた。ポケットからスマートフォンを取り出し、保存していた写真を開いて、秋葉に差し出した。「実は、大学の掲示板で、これを見つけたんです」


 カラフルな紙面に、「地域合同企業説明会」の文字が躍っていた。「去年も行ったんですけど、地元のスーパーとか飲食チェーンばかりで……」目黒は、少し気恥ずかしそうに視線を落とした。「でも、もしかしたら」


「行ってみればいいじゃないか」スマートフォンの画面に目をやって、秋葉はあっさりと言った。マグカップの紅茶を一口飲み、ふと表情が和らぐ。「授業の時間以外は、自由に職探しに使いなさい」そして少し間を置いて、目黒に向き直る。「たった一度の人生だ。後悔のないようにな」


 ~予感のはじまり~


 会場は、予想通りの混雑だった。リクルートスーツに身を包んだ若者たちが行き交い、声と熱気が渦巻いている。地元のスーパーや飲食チェーン、介護施設のブースが、会場の大半を占めていた。やっぱり、自分の求めるものは、ここにはないのかもしれない。目黒は、そう思いながら歩を進めた。


 会場を一巡りすると、壁際にひっそりとした小さなブースが目についた。「フューチャーテック大崎」。青地に白抜きの、シンプルなロゴ。目黒は足を止めた。半年前、塾で使うために買い替えたパソコンを、この店で購入したのだった。品揃えはマニアックだったが、価格は安く、メールのサポートも丁寧だった。


 ブースに座っていたのは、男性が一人だけだった。短く刈り上げた髪に、黒縁の眼鏡。白いワイシャツの袖をまくり、ノートパソコンのキーボードを静かに叩いている。目黒が近づくと、彼はふと顔を上げ、少し意外そうな表情を見せた。


 男性は椅子から立ち上がると、名刺を差し出した。「フューチャーテック大崎、営業部の品川です。弊社に関心を持っていただいて、ありがとうございます」一通りの挨拶が終わると、目黒はおずおずと尋ねた。「あの、第二新卒でも応募可能でしょうか?」


 品川は、眼鏡の奥の目を細めてうなずいた。「もちろんです。うちは、学歴職歴不問。やる気重視なんで」目黒に椅子を勧め、自身も腰掛けると、少し身を乗り出して話しかけてきた。「差し支えなければ、どこで弊社をお知りになったんですか?」


「以前から通販でパーツを購入して。店舗にも一度だけ……」目黒がそう答えると、品川の目の色が変わった。「マジっすか!ありがとうございます!」一転して砕けた口調になる。「よかったら、サイトの感想聞かせてもらえます?ぶっちゃけでいいんで」


 予想外の質問に、少し戸惑いながらも目黒は、正直な感想を伝えた。「えっと……品揃えは面白いと思うんですけど、情報が少し足りないかな。スペックの比較とか、もう少し詳しくないと、パソコンに詳しくない人には難しそうで」


 言い終わるのを待って、品川は手元のノートに何かを書き始めた。その表情は、真剣そのものだった。「なるほど……」書き終えた内容を見て、彼はしばらく考えた後、顔を上げ、まっすぐに目黒を見た。「貴重な意見っす!ちょうど今、サイトのリニューアル検討してて」


 そして突然、品川が、「本社に来てみませんか?」と切り出した。「 面接というより、まずは会社見学というか。目黒さんみたいな視点、ほしいんすよ」その言葉に、目黒は何かが動き出すような予感を覚え、「はい、ぜひ」と、気づけば口にしていた。


 品川は手帳を開き、いくつか候補日を挙げた。目黒が都合の良い日を伝えると、品川は満足げにうなずいた。「では、お待ちしてます」別れ際、彼は立ち上がり、ふっと悪戯っぽく笑った。「あ、言い忘れてましたけど……」


「はい?」お辞儀をして顔を上げた目黒が、首を傾げる。品川はそのまま、ふっと笑って言った。「うち、ちょっと変わってますけど、面白い会社ですよ」その言葉が、妙に目黒の心に引っかかった。


 ~文化祭みたいな会社~


 数日後、目黒はカーナビの案内に従って車を走らせていた。市街地を抜け、田園風景の広がる一本道をしばらく進む。やがてナビが、「目的地周辺です」と告げた。


 目黒の視界に入ってきたのは、田んぼの中にぽつんと建つ平屋の建物。看板には、確かに「フューチャーテック大崎」の文字。その向かいには、派手なネオンサインのパチンコ店が光っていた。


 戸惑いながら車を降りると、社屋の前でポロシャツ姿の初老の男性が、丸テーブルを運び出していた。首にタオルを巻き、汗を拭きながら目黒に気づくと、人のよさそうな笑顔を見せた。「おう、君が目黒くんかい?品川くんから聞いてるよ。遠いとこ、わざわざごくろうさん」


「いえ、とんでもないです」 目黒が頭を下げると、男性は手で建物を指した。 「まあ、立ち話もなんだ。中へどうぞ」ドアをくぐると、ほこりの匂いが鼻をついた。商品棚やテーブルが雑然と並び、床には段ボールが積まれている。「今日は店舗の模様替えなんだ」男性はそう言い残し、奥へと消えていった。


 ほどなくして、品川が姿を現す。そのすぐ後ろに、先ほどの初老の男性もついてくる。「こちらが、社長の大崎です」大崎社長は、作業で汚れた手をズボンでざっと拭くと、目黒に手を差し出した。「やぁ、どうもどうも」


 面接は、店舗の片隅にある小さな商談用テーブルで行われた。「塾の先生だったんだねぇ」大崎社長は、興味津々といった様子で身を乗り出す。「どんな生徒がいたの?」目黒がいくつかのエピソードを話すと、「へぇ〜、そうなんだ」社長は目を輝かせながら、うなずき続けた。


 そこへ、初老の女性が麦茶を持ってきて、目黒に勧める。「で、なんで転職しようと?」社長の声は変わらず、穏やかだった。目黒は女性に頭を軽く下げ、「前の塾が閉鎖になってしまって……」と答えて、少し迷ってから本音を口にした。「次は、なんというか……文化祭みたいな職場で働きたくて」


「文化祭?」大崎社長が首を傾げた。目黒は、麦茶のコップを手に取り、軽く口をつけてから話しはじめる。「はい。みんなで何かを作り上げるような、熱気のある場所で……」と言ってしまってから、場違いなことを言ったかもしれないと、少し後悔した。


 だが、大崎社長は目を細め、嬉しそうに深く頷いた。「文化祭か。いいねぇ、それ」懐かしむように、ぽつりと呟く。「社長、よく言ってましたよね」品川が笑いながら茶々を入れる。「『毎日が文化祭みたいな会社にしたい』って」


「ところで目黒くん、パソコンの知識は?」大崎社長が尋ねると、目黒は少し自信なさげに答えた。「専門的ではないですが、自分で組み立てたことはあります」社長は品川と顔を見合わせ、すぐに言った。「十分だ!うちは魂がある人が欲しいんだよ。技術は、後からついてくる」


 まるでその場で採用が決まったかのような、和やかな空気が流れていた。目黒の胸の内では、何かが静かに動き始めていた。


 ~また始めればいい~


 翌日、目黒は講師室で秋葉に、昨日の面接の報告をしていた。田んぼの中の社屋。気さくな社長。そして、“文化祭”という言葉への、思わぬ反応。「面白い会社だね」秋葉は穏やかに微笑んだ。「で、どうするんだ?」ちょうどその時、目黒のポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には、品川からのメール受信通知が表示されていた。


 > 先日は遠いところ、お越しいただきありがとうございました。

 > 社長とも話し合いの上、ぜひ目黒さんと一緒に働きたいと考えております。来月からご出社いただくことは可能でしょうか?

 > 詳細は、添付ファイルをご確認ください。


 短い文面だったが、そこに込められた熱意が伝わってくる。目黒はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。「どうした?」秋葉が心配そうに覗き込んでくる。小岩の塾に行けば、安定した未来が約束されている。給料も良く、将来は校舎長だ。だが、それは本当に自分の求めるものなのか?


 フューチャーテック大崎は、「変わった」会社かもしれない。田舎のプレハブで、社長自らが荷物を運ぶような場所。それでも、そこには確かに、「文化祭」の熱気があった。目黒の胸の奥で、長く眠っていた何かが、少しずつ、目を覚ましはじめていた。


「秋葉さん……」目黒は、ゆっくりと顔を上げた。「決めました」秋葉は、黙ってうなずく。「やっぱり僕は、文化祭みたいな、面白い場所で働きたいんです」目黒は、胸に手を当てた。「だから、フューチャーテック大崎に行ってみます」


 秋葉は少し寂しそうな、でもどこか納得したような表情で、静かに微笑んだ。「そうか。目黒先生が決めたなら、それが一番だ」そして、いつもの穏やかな笑顔で、目黒の背中をポンと叩いた。「君なら、どこに行っても大丈夫だ」


 窓の外では雲の切れ間からもれた光が、街を照らしていた。四ヶ月間の塾での日々。それは目黒にとって一つの「文化祭」だったのかもしれない。でも感傷に浸る暇はない。スマートフォンの返信ボタンを押し、新しい文化祭への参加表明を打ち始める。


 > お世話になります。ぜひ御社で働かせていただきたいと思います。


 胸の中に小さな、しかし、確かな熱がそっと灯った。文化祭は終わった。でも、また始めればいい。​​​​​​​​​​​​​​​​

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