第3話:もう一度、始める場所

 ~恩師の紹介状~


 教育学部の階段を上りながら、目黒はまだ学生だった三ヶ月前の記憶を、どこか遠いもののように感じていた。見慣れた研究室の扉をノックすると、「どうぞ」という低く渋い声が返ってくる。ドアを開くと、そこには白髪交じりの髪に僅かに汚れた白衣を纏った中野教授の姿があった。


「おう、目黒君か。久しぶりだな」教授は椅子から立ち上がると、棚からビーカーを取り出し、脇のガスバーナーに火を点けた。目黒は、学生時代に繰り返されたその光景に、思わず口元に笑みを浮かべた。「そろそろコーヒーメーカー買ったらどうですか?」


「塾のこと、災難だったな」教授はマグカップにコーヒーを注ぎながら言った。口調はそっけなかったが、その目には、かすかに心配の色がにじんでいた。目黒は丸椅子に腰を下ろしながら、小さくうなずく。「はい……社長の本業がうまくいかなくなって、塾は切り捨てられたみたいです」


「で、次はどうする気だ?」マグカップの1つを手渡しながら、教授も椅子に腰を下ろす。目黒は湯気の立つカップを手にしたまま、少しだけ間を置いてから口を開いた。塾の閉鎖が決まったこと。生徒や保護者たちの、困惑した顔。話すうちに、自分でも気づかないうちに、声のトーンが少しずつ沈んでいった。


 教授は少し考え込んだ後、ビーカーに残ったコーヒーをじっと見つめながら、口を開いた。「私の知り合いに、塾を経営してる男がいる。よければ紹介しようと思ってな。平井というんだが、県内じゃそこそこ名の知れた塾をやってる。」


 そう言いながら、教授は引き出しから一枚の便箋を取り出し、さらさらと万年筆を走らせる。「その分野じゃ一目置かれてるよ。午前中なら、塾の本部にいるそうだ。……まあ、話を聞くだけでもいいだろう」書き終えると、便箋を封筒に入れ、無造作に目黒へ差し出した。


「ありがとうございます!」封筒を受け取った目黒は立ち上がり、深々と頭を下げた。そしてそのまま研究室を後にする。廊下を歩き、学務課の前を通りかかると、掲示板のポスターが目に入った。カラフルな紙面に「地域合同企業説明会」の文字。初夏の陽射しに照らされ、眩しく輝いていた。


 昨年の説明会には参加したが、地元のスーパーやラーメンチェーン、介護施設の案内ばかりで、心が動くようなものは何1つなかった。だが今は、そんなことを言っていられる状況じゃない。目黒はスマートフォンを取り出し、ポスターを撮っておいた。


 ~起業という名の選択肢~


 中野教授から紹介された塾の本部は、予想以上に立派な四階建ての自社ビルだった。梅雨の雲の切れ間から届く日差しが、ガラス張りの外観に反射して、目黒は思わず目を細める。「目黒様ですね。お待ちしておりました」受付の女性に案内され、目黒はエレベーターへと足を運んだ。


「社長室」と書かれたドアをノックすると、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってきた。ドアを開けると、広々としたオフィスの奥に、大ぶりのデスクが構えている。部屋の隅には手入れの行き届いた観葉植物。壁一面には、教育関連の書籍が整然と並んでいた。


「やあ、目黒君だね。中野から話は聞いているよ」五十代半ばほどの男性がゆっくりと立ち上がり、革張りのソファを手で示した。「どうぞ、座ってくれたまえ」目黒は緊張を押し隠すように頭を下げる。「お忙しいところ、ありがとうございます」


「で、君はどんな教師なんだい?」平井はソファに深く腰を下ろし、余裕の笑みを浮かべたまま、じっと目黒を見据えた。その眼差しには、人材を見極める鋭さが潜んでいる。「私は主に英語を教えていました。中学受験から高校受験まで、幅広く担当していまして……」


 目黒が自分の経歴を語るあいだ、平井は穏やかに頷きながらも、その目はじっと相手を見据えていた。話の流れの中で、目黒はふと口を開いた。「実は、閉鎖の話を保護者に伝えたとき、『公民館を借りるから、塾を続けてほしい』って言われたんです」


 平井の目が、ふいに鋭さを増した。目黒は少し言いにくそうに続けた。「でも、塾頭が……家族もいるし、リスクは取れないと、お断りしたんです」平井は大きく息を吐き、肩をわずかにすくめた。「まったく、若いのは分かっていない」そう呟きながら、身を乗り出してきた。


「生徒集めが一番大変なんだよ。それが最初からついてくるなんて、そんな好条件を捨てるなんて、若さの無駄遣いじゃないか」平井の声は熱を帯び、社長室に響き渡った。「私だって、最初は自宅の一室から始めたんだ。最初は公民館でもいい。少しずつ生徒を増やしていけばいいんだよ」


 目黒は戸惑いながらも黙って聞いていた。平井の言葉は、確かに筋が通っていた。起業という選択肢。それは確かに魅力的だが、どこか違和感が拭えない。平井の熱意は、まるで文化祭の収支決算のように整然としていて、数字だけが踊る世界だった。


「ありがとうございます。参考にさせていただきます」目黒が丁寧に答えると、平井は少し残念そうな顔をした。その表情には計算された親切と、わずかな失望が混在していた。「まあ、うちの塾でも講師は募集しているよ。もし興味があれば、いつでも連絡してくれたまえ」


 ~迷いの先にあるもの~


 翌日の午後。目黒が出勤して、講師室に入ると、秋葉が問題集を眺めていた。「おはよう、目黒先生。ちょっといいかな」そう言って、秋葉はデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。「昨日、ハローワークに行ったんだけど、こんな求人があったんだ」


「英語講師募集(経験者優遇)」という文字が、求人票のコピーに大きく印刷されていた。目黒はお礼を言い、その日の授業が終わると、求人票に書かれた番号に電話をかけた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、張りのある男性の声だった。


「はい、勝英学院です。」短いやり取りの中で、学院長の小岩と名乗った人物が、「ぜひ会って話がしたい」と言い、目黒の勤務する塾の近くにある喫茶店での待ち合わせを提案してきた。その落ち着いた声に、目黒は思わず、うなずていた。


 待ち合わせの時間、目黒が喫茶店の席に着くと、窓から見える駐車場に黒いレクサスが滑り込んできた。ドアが開き、ダブルのスーツに身を包んだ男性が降りてきた。四十代前半といったところだろうか。左手首には高級そうな時計が、控えめに光を放っていた。


 近づいてきた男性が、「目黒さんですか?」と声をかけた。「小岩です。お待たせしました」目黒が立ち上がって一礼すると、小岩は手を差し出してきた。その握手には温かみがあり、掌から伝わる体温が、言葉以上に相手の存在を実感させた。


「えっと、求人の件で問い合わせたのですが……」目黒が切り出すと、小岩は大きく頷いた。「ああ、その件だ。実は、英語の講師をすぐに探していてね」小岩の言葉は簡潔だったが、平井とは違う温度があった。計算された親切さではなく、どこか人間らしさがにじんでいた。


「うちはね、個別指導がメインなんだ。で、今度、新しく駅前に校舎を出す予定でね。そこで英語を見てくれる人を探してたんだよ」小岩の説明には、事業への自信と、未来への期待が溢れていた。言葉の熱が、喫茶店の落ち着いた空気の中でも失われることなく、目黒に届いてくる。


「給与は前の職場より良くするよ。それに、将来的には校舎長も任せたいと思っている」目黒は小岩の熱意に、少しずつ心が動かされていくのを感じた。「ありがとうございます。ただ、もう少し考える時間を……」目黒が言いかけると、小岩は手を振って遮った。


「私は人を見る目には自信があるんだ。君なら大丈夫だ。すぐに来てくれるなら、ぜひとも採用したい」そう言って小岩は、給与条件や勤務時間の詳細が記された書類を取り出し、そっとテーブルの上に置く。目黒がそれに手を伸ばすより早く、小岩はじっとこちらを見つめた。


「はい、よろしくお願いします」目黒の言葉に、小岩は満足そうに微笑むと、「よし、決まりだ」と言って、目黒と再び握手を交わした。その掌から伝わる体温が、言葉以上に確かな約束の証のように思えた。


 喫茶店を出た後、目黒は小岩と駐車場に向かいながら、胸の内に小さな火が灯るような感覚を覚えた。黒いレクサスを見送る目黒の心には、新たな可能性への期待と、どこかに見落としがあるかもしれないという不安が、静かな波のように寄せては返していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る