第2話:失われた居場所
~静かな異変~
授業を終えた目黒が講師室に戻ると、夕方に降り始めた雨は大粒になり、窓の向こうに見える隣のビルの壁面は、びっしょりと濡れていた。塾頭の秋葉は、授業が長引いているのか、まだ部屋に戻っていない。
「これからどうするの、目黒先生?」給湯室から戻ってきた英会話クラスの担当の千葉が、声をかける。じっと目黒の顔を見つめる彼女に、目黒は少し考えてから答えた。「……雨、強くなりそうなんで、まっすぐ帰ります」
「ふぅん……お疲れさま」千葉は片方の口角だけをわずかに引き上げると、机の上のブランドバッグを手に取り、部屋を出ていった。コツコツと響くヒールの音が、廊下の向こうへと遠ざかっていく。
どこか引っかかる言い方だった。目黒はリュックのファスナーを閉じ、ふと窓の外に目をやる。駐車場のアスファルトには水たまりができ、街灯の光がゆらめいていた。
翌日、出勤した目黒が講師室のドアを開けると、秋葉の席には普段は顔を見せない社長が座っていた。缶コーヒーを片手に、黙ってこちらを見ている。秋葉はその向かいのバイト用の机に座り、問題集をめくっていた。
「おはようございます」目黒が声をかけると、社長は軽く会釈をして、そそくさと部屋を出て行った。ドアが閉まると、秋葉は小さく息を吐き、椅子にもたれかかった。
「目黒先生、あとでC教室に来てもらえるかな」秋葉の声はかすれ気味で、いつもより低かった。目黒は椅子に腰を下ろしながら、「分かりました」と答えたあと、そっと尋ねる。「……何かあったんですか?」
秋葉は一瞬、何か言いかけたが、首を横に振った。「授業に行ってくる」そう言って、テキストと問題集を抱えると、足早に部屋を出ていった。目黒も気を取り直して、自分の担当する教室へと向かった。
その日の授業では、期末テストを控えた生徒たちは、いつもより真剣な表情で問題に取り組んでいた。目黒は、生徒の質問に答えながらも、さっきの秋葉の様子が気になって仕方がなかった。
~Let’s Enjoy the End~
授業が終わり、指示されたC教室へ向かうと、窓際のパイプ椅子に社長が座っていた。その隣で秋葉が、社長の話に小さくあいづちを打っている。「目黒先生、ちょっと話があるんだ」秋葉が振り返り、目黒の後ろでドアを静かに閉めた。
社長は眼鏡をかけ直すと、ゆっくりと口を開いた。「急で申し訳ないんだが、この塾、来月末で閉鎖することにした」秋葉は黙ったまま、視線を落としている。あまりに突然の話に、目黒は「……えっ?」としか返せなかった。
それだけを話して社長が本社に戻ると、目黒はぽつりと尋ねた。「塾、大きくする予定だったんじゃないですか?」気の抜けたような表情で、秋葉の顔を見つめる。秋葉はため息をついた。「……本業の収益が落ちて、メインバンクに言われたらしいよ。『道楽の塾はもうやめろ』って」
目黒は天井を仰いだ。「三ヶ月でリストラって……」春からの正社員登用。切り開いたはずの新しい扉が、あっけなく閉じようとしていた。秋葉は力なく笑いながら言った。「俺なんて先月ローンで車買っちゃったよ。子ども、まだ小学生だってのにさ」
真顔に戻った目黒が、静かに尋ねた。「生徒たちには……いつ伝えるんです?」秋葉は壁のカレンダーをじっと見つめて、自分に言い聞かせるように答えた。「明日から順番に生徒の家を回って、保護者に直接伝えていく。閉鎖までは、できる限り普通に授業をやろう」
翌日、目黒が出勤すると、秋葉が頭を抱えて座っていた。目黒は席にリュックを置きながら声をかける。「どうしたんですか?」秋葉は顔をあげると、ため息まじりに言った。「千葉先生、有給取って転職活動だってさ。もう来ないってさ」
「マジっすか……」目黒は絶句した。一昨日の「これからどうするの?」という千葉の言葉が、今になって痛いほど鮮明になる。あの時、すでに次の一手を考えていたのだ。そう思うと、やりきれなかった。
「それで、彼女の英会話授業、代わりにお願いできないかな」秋葉はすがるような目で、目黒を見つめた。目黒は困ったような顔で言う。「自分、受験英語しか教えてなくて……英会話って、何をすればいいんですか?」
「大丈夫。彼女の使ってたDVDがあるから。生徒には、それを見せておいてくれればいい」秋葉はデスクの引き出しからDVDを取り出した。無理に明るく振る舞っていたが、その声には現実から目を背けるような響きがあった。
目黒は苦笑しながらDVDのケースを手に取った。『Let's Enjoy English!』というあまりに明るいタイトルに、思わず皮肉がこみ上げる。だが、それを口に出すことなく、ケースを開けた。
~片付けのあとで~
翌日から、塾の講師たちは保護者への訪問を始めた。高校生の家庭には秋葉と数学担当の市川が、中学生と小学生には秋葉と目黒が回る。「この度は、学年の途中にも関わらず、誠に申し訳ございません」玄関先で深々と頭を下げる秋葉に倣い、目黒も頭を下げた。
「先生たちは、次の職場もう決まってるんですか?」心配してくれる保護者に、秋葉は小さく首を横に振った。「私たちのことより、お子さんの次の塾ですが……」そう言って、別の塾のパンフレットが入った封筒をそっと手渡した。
どの家でも、保護者は戸惑いの表情を浮かべていた。けれど最後には、皆、現実を受け入れ、子供の進路を考えるしかなかった。「先生、ありがとうございました」と言われるたびに、目黒は胸の奥が苦しくなるのをこらえて頭を下げた。
ある日の夕方、小学三年生の子どもの保護者宅を訪ねたときのことだ。玄関先で、思いがけない提案を受けた。「うちの子、先生たちに教えてもらうのが楽しいって……。他の親御さんとも相談して、公民館を借りるので、塾、続けてもらえませんか?」
秋葉の指先が、膝の上のパンフレットをきゅっと握りしめた。「……お気持ちは、本当にありがたいです。ですが……申し訳ありません。まだ、私たち自身の今後が何も決まっていなくて……」丁寧な口調の裏で、その声は震えていた。
車に戻ると、秋葉がぽつりと言った。「悪いな、目黒先生。気持ちは嬉しいけど……俺には家族がいるんだ。リスクは、取れない」目黒はシートベルトをしながら、静かに答えた。「……いえ、わかります」
その夜、塾からの帰り道。目黒は少し遠回りして、小高い丘の上の公園へと車を走らせた。真っ暗な駐車場は、文化祭の片付けを終えた校舎のように、しんと静まり返っていた。車を停めて、窓を開けると初夏の空気が心地よかった。
先ほどまでの雨はやんで、街の灯りがよく見える。「三ヶ月前……ここが、自分の次の居場所になるって、思ってたんだ」空を見上げると雲の切れ間から、わずかに星が見えていた。「でも……やっぱり、文化祭は終わる」
ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には、数日前にリストラの相談を送った大学の恩師、中野教授の名前が表示されている。メールを開くと「火曜と金曜の午後は空いているから、いつでも会いに来い。」と書かれていた。
目黒はハンドルを握り、ゆっくりと車を発進させた。まだ何も決まっていない。でも、明日はまた来る。そして、いつか別の場所で、新しい文化祭が始まるかもしれない。片付けだけでは、終わらない。
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