文化祭は、まだ終わらない
MAY
第1話:自分の仕事
~揺らぎのはじまり~
窓から隣のビルの壁しか見えない塾の一室。机の上には、採点待ちのテスト用紙がきれいに積まれていた。目黒由紀(めぐろ よしのり)は、小さく首をかしげながら、赤ペンで「テキスト35ページ!」と書き込む。
ふと目をあげると、高校クラスの生徒が「ありがとうございました」と部屋の入口から顔を覗かせていた。書棚の前で問題集を眺めていた塾頭の秋葉は、「お疲れさん」と生徒に手を振る。
目黒も「お疲れ」と手を振った。六年目の大学生活。生徒たちが「わかった!」と顔を輝かせる瞬間や、成績が上がって一緒に喜びあう時間が好きで、この個人塾でバイト講師を続けてもう四年。教えることには、少しだけ自信がついてきた。
けれど、今年も秋が深まるにつれて、目黒は塾で感じていた満足感が、心のどこかで揺らぎ始めた。就職活動、卒業後のこと。考え出すと、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなる。
「目黒先生、ちょっといいかな」問題集を棚に戻すと秋葉が振り返る。いつもの穏やかな笑顔の彼の周りだけ、空気は柔らかい気がする。でも、今日はその笑顔の奥に、ほんの少しだけ違う何かを感じた。
「はい、何でしょう?」目黒は手を止めて、顔を上げる。秋葉が少し声をひそめて、話しはじめた。「いやね、社長がさ、新しい先生を採用したんだよ。アメリカ帰りらしくてね、『本場の英会話を教える!』って息巻いてるんだ」
「……それって、自分、クビってことですか?」目黒が表情をこわばらせる。秋葉は、ふっと息を吐いて困ったように笑った。「いやいや、とんでもない。目黒先生がいてくれないと困るよ」
目黒の安堵したような表情を見て、秋葉が話を続けた。「千葉先生って言うんだけどね。英会話の担当だから、君の受験英語とは別枠。心配いらないよ。……まあ、社長のいつもの思いつき、みたいなもんだけど」
~試される場所~
数日後、目黒が講師室に入ると、噂の千葉がいた。ショートヘアに、よく見るとブランドものらしいジャケット。目黒に向けられたのは、品定めでもするような鋭い視線だった。隣に座っていた秋葉が、目黒に軽く目配せをする。
「……あっ、はじめまして。英語の授業を担当している目黒です。よろしくお願いします。」目黒は精一杯の笑顔を作る。訝しげに千葉が、目黒を見やり、低い声で言った。「ふうん、あなたがバイトの?」
「は、はい……」目黒の返答など眼中にないように、千葉は鼻を鳴らし、教材に視線を落とす。「まあ、邪魔にはならないようにしてね」その一言に、目黒は何も言い換えせず、愛想笑いを返した。
その日の授業を終えて、目黒が講師室に戻ると、千葉の姿はもうなかった。「……自分、なにか失礼なこと言いましたか?」机に座りながら目黒が尋ねると、秋葉が苦笑いを浮かべる。「気にしないことだよ。あの人、ちょっとプライドが高いだけだから」
「それより目黒くん、大学、来年は卒業するんだろ? 就職先、もう決まったのかい?」秋葉がマグカップの紅茶を一口飲み、机に置く乾いた音が部屋に響く。目黒は頭に手をやり、軽くため息をつく。「……一応、自動車販売の会社から内定はもらったんですけど……正直、あまり気が乗らなくて」
「そうか……」秋葉が静かに応えると、目黒が続けた。「でも、就職しないわけにもいかないし……この先、定年までずっと車を売る自分を想像すると、なんていうか、文化祭が終わった後の校舎みたいなんです」
ポツリと目黒の本音がこぼれた。あの熱狂と喧騒が嘘のように消え去って、ゴミと片付けだけが残された、がらんとした教室みたいな、あの感じ。すると、秋葉は少し考えて口を開いた。「だったらさ、うちの正社員にならないか?」
「……え?」目黒が聞き返すと、秋葉は急に真剣な表情になる。「社長の方針で、これから私立中学の受験対策クラスも増やしたいと思っていてね。目黒先生みたいな算数や理科も教えられる人材が、ちょうど欲しかったんだ。」
「……はい! 入社します。よろしくお願いします! 」目黒は、秋葉の誘いに反射的に答えていた。秋葉は少し困ったような顔をする。「まあ、正社員といっても、保護者対応の仕事が増えるだけで、あまり代わり映えはしないけど……」
目黒は「自分の仕事」と言えるものが増えることに目を輝かせる。ずっと熱いままでいられるかもしれないと感じる一方で、「それでも文化祭は、いつか終わる」という思いが胸に浮かんでいた。
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