北国の天才少女は恋をした


 昼休みの屋上。まだ雪の残る札幌の風が、制服の裾をさらさら揺らしている。

 星野チエはフェンスにもたれ、無言で空を見上げていた。


 強めの度が入ったメガネに、左右に垂らしたタイトな三つ編み──。

 「キッズのヘアアレンジ」からインスタで母親が見つけて以来、ずっとこの髪型。

 襟元まできっちりボタンを留めたシャツが、几帳面な性格を物語っていた。


 その膝に、ひとりの不良少年が頭を乗せて寝そべっている。

 シャツははだけ、髪は寝癖だらけ。不機嫌そうな眉間のシワは、どこか猫っぽい。

 それがチエには、たまらなくいとおしかった。


 ──この幸福に対して、あたしが支払える代償はいくらだろう?

 そんな思索に沈むチエの頬を、てつがむにむにと突っついてきた。


「なにボーッとしてんだよ、チエ」


「むー……ひとのホッペで遊ばないでって、いつも言ってるっしょお」


 お返しとばかり、こんどはチエが哲の頬をつまむ。


「いててて、本気でつねるなって。チエ、ごめんて」


「もうしない?」


「……しないしない、したこともない」


 哲の手が離れると、頬の形がもとにもどる。

 ──自分の顔が美しくないことくらい、知っている。それでも、世界一愛されることを妨げる理由にはならないって、わかってる。


 頬を引っ張れば、だれだって変な顔になる。

 そういう問題じゃない。見た目じゃない「気持ち」が、ここにはあるのだ。


 哲の寝癖だらけの髪、穏やかな表情。

 制服の着崩しも、だらしない癖も、ぜんぶ含めて、このひとを愛してる。


「アイシテル……」


 声に出したつもりはなかったが、目が口ほどにものを言っていたかもしれない。

 ごまかすように唇を尖らせた横顔に、哲が顔を寄せてそっとキスを落とす。


「聞こえたぞ。これがお望みだろ? ほんと、チュー好きだよな、チエ」


 反射的に唇を開いて受け入れてしまったチエは、開き直るしかなかった。


「ちがうし。チューが好きなんじゃなくて、キミとするのが好きなの」


「……おまえ、たまにすごい恥ずかしいこと言うよな。やっぱ天才ってやつは」


 言いかけた唇を、人差し指でふさぐ。


「哲、不良生徒なんだから、1時間くらい授業サボっても、どうってことないっしょ」


「俺はそうだけど、おまえはちがうだろ」


 ごん、と軽い頭突き。

 もう一度やろうとしたところで、哲がチエの頭をやさしく押さえる。

 一瞬の喜び、そこに混ざる複雑な悲哀。

 この世でいちばん、たいせつなものを扱うように──。


「離して」


「もちろん離す。けど、


「あたしムカついたのよ。だからキミに痛い目見せたくなるの。怖くないっしょ? キミみたいな不良、修羅場慣れしてるはずだもん」


「ああ、喧嘩ばっかしてたよ。だから、ムカついたら殴っていい。蹴ってもいい。なんなら武器も使え。死なない程度にな。でも──


「わかったってば、わかったから……」


 哲がゆっくりと手を放す。チエも同じく、そっと頭を下ろして、そして──。

 さっきよりも強く、キスをした。彼を抱きしめながら。




 青春を切り裂く予鈴。

 教室がざわめきはじめる。窓の外、曇天の札幌は鈍色の光を落としていた。


 ──高校の授業なんて、あたしにとっては児戯に等しい。


 チエは教卓からの視線を意にも介さず、机の上に広げた専門書に没頭していた。

 洗練された指がページをめくる。その数式や理論は、まるですでに読み終えた物語のように、すっと彼女の中に馴染んでいく。


 教師も彼女を止めようとはしない。すでに暗黙の了解だった。

 ──というより、そうしていてほしいと思っている。下手に絡んで、自分の無能をさらけ出したくはないんだべさ。


 論文に目を落としつつ、心のどこかでは冷笑を浮かべている。

 自他ともに認める天才。

 その知性は、ときに教室の空気すら拒絶する。




 放課後、夕暮れが近づく頃。

 哲とチエは、いつものように下駄箱で合流した。


「行かないんでしょ? まだ。哲ってば、不良だもんね」


 挑発ぎみに笑いかけると、哲はあっさり肯定する。


「ああ。でも出席率ってのがあるからな。おまえ最近、俺と登校しすぎ」


「わるいと思ったら、もっと早く起きなさいよね」


 つんとした口調に、哲は肩をすくめた。


「俺が早起きしたら、雪でも降るぞ」


「そういうこと、胸張って言わんでっしょや」


「いや、だって俺、勤労学生だし。夜中までバイトして、寝るの2時とか3時なんだわ。朝つらいの、しょうがないべさ」


 その言葉に、チエの視線がすこしだけやわらぐ。

 ──もちろん、知ってる。

 哲が、自分の生活をちゃんと支えてることも。


 学校でだらしなく見えるのは、その分の帳尻を合わせてるだけ。

 強がりも、言い訳も、彼の真意を理解してるのは、たぶん自分だけだ。




 昼下がりのファミレス。

 テーブルに置かれたレシートに視線を落とし、チエが財布を取り出しかけたとき、哲がそれを止める。


「いいって」


 すっと会計を済ませる彼の背中を見送りながら、チエは思う。

 ──男と遊びに行ったら、女はオゴられる。

 そんなの、時代遅れ。バカみたい。居心地もわるくなる。


 自分の分は、自分で払いたい。それは、ただの意地じゃない。

 だって高校生の金なんて、親の金だもん。


 でも哲は、ちがう。

 自分で働いて、稼いだお金で払ってくれた。


 夜中のバイト。眠い目をこすって登校する姿。

 ──そんな彼に奢ってもらったと思うと、なんだか不思議な気分だった。


 うれしい。

 それだけじゃない。ほんのちょっと、誇らしい気持ちにもなる。


「ありがとう」


 すなおに感謝できた。

 親も、先生も、常識も関係ない。


 ──あたしと彼、ふたりだけで、世界に向き合ってる感じ。

 すごく、いい。

 そんな余韻のなか、哲がぽつりとつぶやいた。


「ファミレスくらいならいいけど、ディナーって名のつくもんは、ちょっと考えたいな」


 正直なひと。チエは思わず笑ってしまった。


「いいよ。あたしが払うわけじゃないし」


 小悪魔のように笑うと、哲がジト目でにらんできた。


「おまえ、ムカつくな」


「うん、ムカつくの。かわいそうな人間なんだわ、あたし。だから──おごって?」


「……卑しいこと言うなよ。らしくもない」


 その言葉に、ほんの一瞬だけチエの眉根が動く。

 哲はしまったと気づき、チエをそっと抱き寄せた。


「泣かせたいの?」


「ああ、性の悦びにむせび泣かせたい」


 ぽかぽかぽか、と形だけのパンチをくれる。

 このやりとりすべてが、あたたかい。


 それは恋愛というより、友情に近い。

 でも、だからこそ本物だと感じる。

 ──恋に落ちるって、こういうこと。


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