北国の天才少女は恋をした
1
昼休みの屋上。まだ雪の残る札幌の風が、制服の裾をさらさら揺らしている。
星野チエはフェンスにもたれ、無言で空を見上げていた。
強めの度が入ったメガネに、左右に垂らしたタイトな三つ編み──。
「キッズのヘアアレンジ」からインスタで母親が見つけて以来、ずっとこの髪型。
襟元まできっちりボタンを留めたシャツが、几帳面な性格を物語っていた。
その膝に、ひとりの不良少年が頭を乗せて寝そべっている。
シャツははだけ、髪は寝癖だらけ。不機嫌そうな眉間のシワは、どこか猫っぽい。
それがチエには、たまらなくいとおしかった。
──この幸福に対して、あたしが支払える代償はいくらだろう?
そんな思索に沈むチエの頬を、
「なにボーッとしてんだよ、チエ」
「むー……ひとのホッペで遊ばないでって、いつも言ってるっしょお」
お返しとばかり、こんどはチエが哲の頬をつまむ。
「いててて、本気でつねるなって。チエ、ごめんて」
「もうしない?」
「……しないしない、したこともない」
哲の手が離れると、頬の形がもとにもどる。
──自分の顔が美しくないことくらい、知っている。それでも、世界一愛されることを妨げる理由にはならないって、わかってる。
頬を引っ張れば、だれだって変な顔になる。
そういう問題じゃない。見た目じゃない「気持ち」が、ここにはあるのだ。
哲の寝癖だらけの髪、穏やかな表情。
制服の着崩しも、だらしない癖も、ぜんぶ含めて、このひとを愛してる。
「アイシテル……」
声に出したつもりはなかったが、目が口ほどにものを言っていたかもしれない。
ごまかすように唇を尖らせた横顔に、哲が顔を寄せてそっとキスを落とす。
「聞こえたぞ。これがお望みだろ? ほんと、チュー好きだよな、チエ」
反射的に唇を開いて受け入れてしまったチエは、開き直るしかなかった。
「ちがうし。チューが好きなんじゃなくて、キミとするのが好きなの」
「……おまえ、たまにすごい恥ずかしいこと言うよな。やっぱ天才ってやつは」
言いかけた唇を、人差し指でふさぐ。
「哲、不良生徒なんだから、1時間くらい授業サボっても、どうってことないっしょ」
「俺はそうだけど、おまえはちがうだろ」
ごん、と軽い頭突き。
もう一度やろうとしたところで、哲がチエの頭をやさしく押さえる。
一瞬の喜び、そこに混ざる複雑な悲哀。
この世でいちばん、たいせつなものを扱うように──。
「離して」
「もちろん離す。けど、頭突きはよせ」
「あたしムカついたのよ。だからキミに痛い目見せたくなるの。怖くないっしょ? キミみたいな不良、修羅場慣れしてるはずだもん」
「ああ、喧嘩ばっかしてたよ。だから、ムカついたら殴っていい。蹴ってもいい。なんなら武器も使え。死なない程度にな。でも──頭突きはだめ」
「わかったってば、わかったから……」
哲がゆっくりと手を放す。チエも同じく、そっと頭を下ろして、そして──。
さっきよりも強く、キスをした。彼を抱きしめながら。
青春を切り裂く予鈴。
教室がざわめきはじめる。窓の外、曇天の札幌は鈍色の光を落としていた。
──高校の授業なんて、あたしにとっては児戯に等しい。
チエは教卓からの視線を意にも介さず、机の上に広げた専門書に没頭していた。
洗練された指がページをめくる。その数式や理論は、まるですでに読み終えた物語のように、すっと彼女の中に馴染んでいく。
教師も彼女を止めようとはしない。すでに暗黙の了解だった。
──というより、そうしていてほしいと思っている。下手に絡んで、自分の無能をさらけ出したくはないんだべさ。
論文に目を落としつつ、心のどこかでは冷笑を浮かべている。
自他ともに認める天才。
その知性は、ときに教室の空気すら拒絶する。
放課後、夕暮れが近づく頃。
哲とチエは、いつものように下駄箱で合流した。
「行かないんでしょ? まだ。哲ってば、不良だもんね」
挑発ぎみに笑いかけると、哲はあっさり肯定する。
「ああ。でも出席率ってのがあるからな。おまえ最近、俺と登校しすぎ」
「わるいと思ったら、もっと早く起きなさいよね」
つんとした口調に、哲は肩をすくめた。
「俺が早起きしたら、雪でも降るぞ」
「そういうこと、胸張って言わんでっしょや」
「いや、だって俺、勤労学生だし。夜中までバイトして、寝るの2時とか3時なんだわ。朝つらいの、しょうがないべさ」
その言葉に、チエの視線がすこしだけやわらぐ。
──もちろん、知ってる。
哲が、自分の生活をちゃんと支えてることも。
学校でだらしなく見えるのは、その分の帳尻を合わせてるだけ。
強がりも、言い訳も、彼の真意を理解してるのは、たぶん自分だけだ。
昼下がりのファミレス。
テーブルに置かれたレシートに視線を落とし、チエが財布を取り出しかけたとき、哲がそれを止める。
「いいって」
すっと会計を済ませる彼の背中を見送りながら、チエは思う。
──男と遊びに行ったら、女はオゴられる。
そんなの、時代遅れ。バカみたい。居心地もわるくなる。
自分の分は、自分で払いたい。それは、ただの意地じゃない。
だって高校生の金なんて、親の金だもん。
でも哲は、ちがう。
自分で働いて、稼いだお金で払ってくれた。
夜中のバイト。眠い目をこすって登校する姿。
──そんな彼に奢ってもらったと思うと、なんだか不思議な気分だった。
うれしい。
それだけじゃない。ほんのちょっと、誇らしい気持ちにもなる。
「ありがとう」
すなおに感謝できた。
親も、先生も、常識も関係ない。
──あたしと彼、ふたりだけで、世界に向き合ってる感じ。
すごく、いい。
そんな余韻のなか、哲がぽつりとつぶやいた。
「ファミレスくらいならいいけど、ディナーって名のつくもんは、ちょっと考えたいな」
正直なひと。チエは思わず笑ってしまった。
「いいよ。あたしが払うわけじゃないし」
小悪魔のように笑うと、哲がジト目でにらんできた。
「おまえ、ムカつくな」
「うん、ムカつくの。かわいそうな人間なんだわ、あたし。だから──おごって?」
「……卑しいこと言うなよ。選ばれた人間らしくもない」
その言葉に、ほんの一瞬だけチエの眉根が動く。
哲はしまったと気づき、チエをそっと抱き寄せた。
「泣かせたいの?」
「ああ、性の悦びにむせび泣かせたい」
ぽかぽかぽか、と形だけのパンチをくれる。
このやりとりすべてが、あたたかい。
それは恋愛というより、友情に近い。
でも、だからこそ本物だと感じる。
──恋に落ちるって、こういうこと。
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