死海の雪花弁 〜想い出の君に妖精の悪戯を添えて〜

尾岡れき@猫部

死海の雪花弁 ~想い出の君に妖精の悪戯を添えて~


 死海という響きに、今さらながら不気味さを感じる。

 人々はバカンスに興じるというのに、命がこのうみにはない。


 塩分濃度、30%。

 死海には、限られた微生物しか存在しないという。


(……ふーん)


 人がプカプカ浮かんでいる。死海の特徴だ。塩分濃度が高いから、人間の体ぐらい、プカプカ浮く。これぞ、彼らにとってのエンターテイメントなのだ。


 命のない場所に、人が群がる。

 するりとのびる手。


 どうやら、ボクを引き込みたいらしい。

 まるで鏡――。


 光が乱反射して。塩の結晶を介して、光のプリズムが幾重にも屈折して、照射と反射を繰り返す。見た目には綺麗だと思う。ただ、構造がよくない。ヨルダン川から、水は流れ込むが、死海から出る支流はない。結果、ここは時の経過と共に、沈殿していくのみ。


 川の流れより、蒸発する方が早いからか。水位が下がる一方だという。まぁ、それも自然の摂理じゃないだろうか。ボクは淡白にそう思う。


(それより……)


 手招きしている。

 おいで、おいで、って。


 寂しいよ。

 さびしい。


 濃い。

 しょっぱい。


 苦い。

 痛い。

 苦しい。


(そうだろうね)


 これだけの、塩分濃度を保つために。塩辛いというレベルじゃ済まないくらい、よくもまぁ、重苦しいカナシミを沈殿させたものだ。


「良いよ」


 ボクは呟く。

 後ろの羽根をパタパタさせながら。


 キミ達と遊べるのは、妖精であるボクぐらいでしょう。


 その手が、ボクを掴む。

 これだけ、重苦しい気脈だ。さぞ、精が沈殿しているに違いない。




 ――イッショに遊ぼうدعونا نلعب معا



 良いね。退屈しのぎには――。





「ごめんね。その子、私の彼氏なの」


 ――ひっمقدس?!



 見慣れた黒髪が揺れる。精が明らかに怯えた。まぁ、分からなくもない。日の本の国の御神木、それが彼女だ。死海に眠るあるじとマブ友になったと聞く。たかが、悪霊が桜那に適うわけがなかった。



「エル、悪霊に口説かれて嬉しいの?」

桜那さなが来るのが、遅かったからだろ?」

「仕方ないじゃない、私だってちゃんと準備したかったんだもん」


 この瞬間、桜那はボクのことしか見ていない。

 バカンスを楽しむ人々は、ボクらのことが見えない。ま、そりゃそうだ。桜の御神木。一方のボクは妖精。察しの良い何人かは、ボクらを避ける。うん、良い勘をしている。きっと、長生きできるよ。


 ――邪魔っعقبة!




「邪魔なのは、あなた」


 桜那が一瞥。


 あぁ、本当にキミって容赦ない。ただの悪霊を、桜の花弁で清める。周囲がどよめく。それは、そうだろう。この死海に、桜の花弁が舞うんだから。哀れ、悪霊は塩と化して――パラパラ崩れる。




「行こう、エル」


 桜の精霊は、ボクの手を引く。

 仕方ない。


 魔力を浪費するから、あまり好きじゃないんだけど。

 花弁が、葉っぱがボクを覆った――刹那。

 身長190㎝の好青年に生まれ変わった。


「エル、その姿は私の前だけってて言ったでしょ! またナンパされちゃう!」


「でも、あのままじゃ。ボク、桜那をエスコートできないでしょ?」


異世界あっちなら兎も角、こっちじゃ辛いクセに」 


 何もかもお見通しな桜那の眼差しが揺れる。異なる世界で生きるボクらは、息をするだけで魔力を浪費してしまう。一番良いのは気脈に接続コネクトすること。不味いけれど、鬼脈でも良い。むしろ、そっちの方が、全て吸い尽くせ――る?


 桜那の唇が、ボクの唇に触れる。

 確かに、ボクらは接続コネクトした。


 別の世界で、生きるボクら。

 割り切ったつもりでいたけれど――ようやく、息ができた気がした。






■■■






「どうして死海なのさ?」


 本当なら、彼女の母親代わりのニンゲンの墓参りもしたい。ニンゲンの風習に、すっかり感化されたと自分でも思うけれど。わざわざ遠回りし、9千キロかけて来た意味が分からない。


 さくっ。

 さくっ。


 塩の結晶を踏む。


 良い塩梅に、呪詛がこめられている。さぞ、この塩はコクがあるだろうね。歩きながら、桜那にまとわりつく悪霊を祓い。逆に、桜那はボクにまとわりつく霊を一瞥で浄化する。




「エルと一緒なら、ママに会えるかもって思ったの」


 澄んだ湖面をみやりながら。

 ふむ、と頷く。樹齢300年の桜にしては、少しノスタルジックが過ぎる。まぁ、ボクも人のことが言えないか。


 桜那もボクも、湖面に釘付けになった。この場所は、他に比べてやけに風が気持ち良い。




 ――桜那、エル?






 湖面が風で揺れる。懐かしい声が






「桜那――」


 ボクが、言葉を紡いだ途端――。

 湖面が波紋で揺れる。


 幻影は霧散したというのに。いつまでも、いつまでも湖面から目が離せなくて。



 光が乱反射して。

 まるで、死海に雪が舞い降ったかのようだった。



「やっぱり、エルが一緒だったからかな」

「空耳じゃない?」


「エルは聞こえなかったの?」

「……聞こえたよ」


 ボソリと呟く。



 さくっと、塩の結晶を踏み潰しながら歩く。どうして命って短いんだろうと思ったのも、今は昔。


 あの子の眷属でしかなかった妖精は、一緒に死ぬ予定だったのに。

 あの子が、あんなことを言うからだ。


 ――エル。もう少しだけ、桜那のこと、お願いできない?




■■■




 塩の結晶を踏む。


 さくっ。

 さくっ。


 音を立てながら。

 自分のことよりも。


 なによりも。


 優先順位、間違っていない?

 ボクがそう苦言を伝えたら、鈴を鳴らすように笑った顔を――意外にも、ボクは忘れていないようだった。




 あの日を思い出す。

 雪を踏みしめて。

 先を急いだ、あの日――。





 死海の塩が、ざくりと鳴る。

 まるで、あの日と一緒だ。

 踏みしめた雪の感触に、本当に良く似ていて。





■■■




 乱反射する光から目を逸らすように、顔を背ける。



 どうやら、君にかけた魔法マジックは、まだタネがバレていないようで――そう、思考を逡巡させていると。


 桜那と視線が交わって。

 どうしてだろう。

 空回りする言葉を紡ぐよりも早く。






 君に、唇を奪われた。

 


 

 

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