第3話





(息……苦しいな)


 なんだか最近酸素が足りない気がする。寝起きから頭痛がすることも増えたし、夜もよく眠れていない気がした。


 今日もらったテスト結果は相変わらずのいい成績で、これを見たら母も父もいつも通り手放しで喜んでくれるに違いない。……違いない、けど。


 嬉しいはずなのに、何故か苦しい。

 家族は咲太郎に一つも勉強を強要していない。海成を受験したいと言ったのは自分の希望だったし、それに伴う模試等のお金も出してくれて精一杯サポートをしてくれた。咲太郎がいい成績をとったら手放しで称賛してくれる。こんなに幸せなことはない。


 ……けれど、落ちない成績が咲太郎を苦しめた。



 やめたい、やめたくない。

 逃げたい、……負けたくない。家族を悲しませたくない。



 ぐるぐると回る思考が気持ち悪い。


 助けてと、母に言ってしまおうか。

 迷いながらスマホを開いたらメッセージアプリに通知が来ていた。それはグループメッセージで、咲太郎は開いて中を確認するとそっと閉じてスマホをポケットにしまう。


 ……彼らが言うように、いっその事アンドロイドになれたなら、こんなに苦しくなかった。


 マンションに着く直前に雨が降り出したけれど、傘をさす気にはなれなくて濡れままマンションに帰りエレベーターのボタンを押す。自宅の階について家の前まで来た時、家の前に母と誰か知らないおばさんがいる事に気がついた。


「それにしても本当に久しぶりねぇ、あなた一つも連絡をよこさないから」

「すみません、忙しくて」


 対応する母の顔は見たことのない愛想笑いを貼り付けていた。


「あなたねぇ、だから苦労するわよって言ったでしょ。子持ちの男の人と結婚するって聞いた時にはびっくり仰天したわよ。しかも生まれたばかりの赤ちゃんでしょう? 成さない子なんて可愛がれないものよ」

「叔母さん、やめて下さい……!」


 周りが急に無音になって、なのにガラガラと足元の崩れる音を咲太郎は聞いた。


(え……どういう事……? 子持ちの男の人って……父さん?)


 妹が生まれた時には、当たり前だが父も母もいたから、父が母と結婚する時に子連れだったと言うならそれは自分しかいない。……という事は、母と自分は――


 無意識に後ずさったら足元にあった消化器に足がガンとぶつかった。母と知らないおばさんがこちらを見て母の目が見開かれる。


「さく――」


 母の静止の言葉も気かず、咲太郎は一目散にその場から駆け出した。マンションを飛び出して近くの公園の前まで来た所で母に捕まる。


「咲くん待って! 話を聞いて!」


 焦った母の声が何かを取り繕おうとしているように聞こえた。それがやけに耳障りで、咲太郎は母を振り払おうと必死だった。

 

 もう、なにも聞きたくない。これ以上傷つきたくない。まともな事なんて、何一つ考えられない。


「離せよ!! ……みんな、みんな! 俺なんて消えればいいと思ってるんだ! 俺なんていなくなればいいと思ってるんだ!」


 母の傷ついた顔がやけにスローモーションで網膜に焼き付けられる。緩んだ腕を振り払って、母の静止を無視して走り出す。

 雨が頬を叩いたけれど、そんな事はもうどうでも良かった。自分がなんで泣いているかも解らなかった。



 カンカンと耳に響く音が聞こえてきて、目の前に黒と黄色の遮断器が降りてくる。赤に点滅する光と音が頭痛みたいに頭に響いた。



 胸が苦しいのも、この音も、頭痛も。何もかも止めて楽になりたい。



 咲太郎は遮断器に手をかけて黒と黄色のバーを持ち上げた。


 その直後、ガーッと線路を電車が通過して、咲太郎は母の悲鳴を微かに聞いた気がした。






 不思議なことに、痛みは全く無くて。気がついたら空から振ってくる雨を眺めていた。

 電車に跳ね飛ばされたのだろうか、と何故かその時はやけに冷静に思っていたら、自分の背後からはぁはぁと人の息遣いが聞こえてくる。恐る恐る振り向いたら、それは咲太郎の母で。母は震える手でしっかりと咲太郎の襟首を掴んでいた。


 咲太郎の母はおっとりとしていて大人しい人で。今まで咲太郎に声を荒げたことなど記憶になかった。その母が、見たこともない形相で、髪の毛を振り乱して咲太郎の襟首を掴んでいる。


「かあさ――」


 思わず名前を読んだら、横っ面を思いっきりぶたれた。


「馬鹿!! 馬鹿馬鹿ばか!! なんて事するのよ!! 咲くんが死んじゃったらお母さんどうしたらいいの!!」


 そのまま何度も身体を叩かれて、馬鹿! と言われる。母に叩かれた痛みで、今自分が生きている事に気がついた。頭がいいねと言われたことはよくあっても、馬鹿だなんて生まれてこの方言われたことがない。そんな馬鹿なことを考えつつ、咲太郎は気がついたら「ごめんなさい」と言っていた。


 母は隙間が1ミリもないくらい咲太郎をかき抱いて、わんわんと泣いた。


 気がついたら二人とも雨でぐちゃぐちゃに濡れて。踏切を通り過ぎる車のドライバーにはぎょっとされるし、母の足元はサンダルな上に片方がどこかに脱げてなくなっていた。そのうち母が「ごめんなさい、ごめんね、辛い思いさせて」と嗚咽の合間に溢して、咲太郎は感情の蓋が壊れたように泣いた。






 母の報を受けて、いつもは仕事で忙しい父が飛んで帰ってきてくれた。


 そこで初めて、自分には産みの母が別にいた事、病気で咲太郎が生まれた直後に亡くなって、途方に暮れていた父と咲太郎の世話をしてくれたのが今の母だということを知った。

 父に「あんまりにもお前たちが普通の親子みたいだから、言い出すきっかけを無くしていたんだ。辛い思いをさせるつもりはなかった。悪かった」と言われて、自分が生まれてこの十四年間、母との関係を確かに疑問に思ったことは一度もなかったと言う事実に気がついた。

 

 それから、「海成を辞めたい」と打ち明けた咲太郎に、父も母もダメだとは言わなかった。


 本当は、辞めたい理由をもっと問うのが親としては正解だったかもしれない。けれど、何も言わずに受け入れてくれたのが咲太郎は逆に嬉しかった。もしかすると、父も母も何かしら咲太郎の変化に気がついていたのかもしれない。


 その後も学校は何か変わるわけでもなく。相変わらず一部のクラスメイトは時々メッセージアプリで咲太郎への陰口を叩いていたが、不思議と前ほど気にならなくなった。

 だから咲太郎はその後も学年トップを維持し続け、外部進学を果たすと卒業式には誰にも告げずに不参加のまま卒業した。



【つづく】

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