アスリートたちのイチャ甘夕食風景
タツキ屋
第1話
夜の九時過ぎ。日本屈指のスポーツ強豪校が誇る巨大な共同食堂は、夕食のピークをとうに過ぎ、がらんとした静けさに包まれていた。
蛍光灯の白い光が、磨かれた床に寒々しく反射している。壁際に設置された大型テレビでは、音量を絞られたスポーツニュースが淡々と流れていたが、それに目を向ける者はほとんどいない。
そんな空間の一角で、俺――海堂 碧は、ひたすらに食事と格闘していた。テーブルの上には、山盛りの白米が盛られた丼、空になった大皿が二枚、そしてまだ手付かずの焼き魚定食と、追加注文したであろう豚の生姜焼きが並んでいる。
今日の夜練習は特にハードだった。全身の細胞がエネルギーを渇望しているのを感じる。黙々と、しかし驚異的なスピードで箸を進める俺の周りには、近寄りがたいオーラのようなものが漂っていたかもしれない。
他に食事をしている生徒は数えるほどしかいない。皆、俺と同じように遅くまで部活や外部での練習に励んでいたのだろう。
会話はなく、食器の音だけが、広い食堂に時折響いていた。一人での食事は慣れている。けれど、心のどこかで、この無機質な静寂が、練習後の疲労感を増幅させるような気がしていた。
その時だった。軽やかで、少しだけふわふわとした足音が近づいてくる。聞き慣れたその音に、俺は顔を上げずとも誰だかわかった。
「あーおーくーん、おつかれさまー」
少し眠たげな、それでいて甘えた響きを含んだ声。予想通り、雪野 凛が、ふわりと俺の隣の席に、まるで吸い寄せられるように腰を下ろした。
彼女は、体にぴったりとフィットした練習着の上に、チーム名のロゴが入った白いジャージを羽織っている。氷上練習終わりなのだろう、ほんのり上気した頬と、少しだけ潤んだ瞳が、蛍光灯の光を反射してキラキラしている。
氷上で見せる、観客を魅了する絶対女王のオーラは今は鳴りを潜め、俺の前だけで見せる、少しだけ気の抜けた、猫のような雰囲気を醸し出していた。
「お疲れ、リン」
俺は、口に含んだ白米を咀嚼し飲み込んでから、短く応える。彼女が隣に座ると、それだけで食堂の無機質な空気が、ふわりと色づくような気がした。
これが、俺たちの日常。
この光景を見て、食堂の隅にいた数少ない生徒たちが「うわ、出た」「今日も砂糖撒き散らす気かよ……」「こちとら疲れてんだぞ、見せつけやがって……」と、ひそひそ囁き合っているのが聞こえるが、もう慣れた。
凛は、持ってきた淡いピンク色のスポーツドリンクのボトルに口をつけながら、俺のテーブルの上、というよりは俺が食べる様子を、興味深そうに、そしてどこか嬉しそうに見つめている。
「んー、やっぱりアオくんの食べっぷりは見てて気持ちいいねー。なんか、こっちまで元気もらえる感じ?」
そう言いながら、彼女はこてん、と俺の肩に自分の頭を預けてきた。柔らかく、甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。この、何のてらいもないスキンシップ。
これが雪野凛という女だ。
世界の頂点を争うアスリートでありながら、俺の前ではこうして無防備に甘えてくる。そのギャップに、俺の心臓はいつも弱い。
「……重い」
「えー、ひどーい。私、体重管理頑張ってるんだよ? こんなに軽いのにー」
口では抗議しながらも、さらにぐりぐりと頭を擦り付けてくる。……確信犯め。
「食べさせてくれって。食べないと死ぬって言ってるだろ」
俺は、焼き魚の身を箸で丁寧にほぐしながら、ぶっきらぼうに答えた。
「知ってるー。でも、本当に美味しそうに食べるんだもん。アオくん見てると、私もなんかお腹空いてきちゃう」
「お前は食ったらダメなんだろ。体重管理」
「そーだけどー! でも、見てるだけならいいでしょ? ねぇ、アオくん、あーんしてあげよっか?」
彼女は悪戯っぽく笑いながら、箸を奪い俺の皿から生姜焼きを一切れつまみ上げ、俺の口元へと差し出してきた。周りの生徒の視線が一斉にこちらに向くのを感じる。
「……自分で食える」
「えー、つれないなぁ。じゃあ、これは私がもらっちゃおーっと」
そう言って、彼女はひょいと生姜焼きを自分の口に放り込んだ。そして、もぐもぐと幸せそうに咀嚼しながら、「んー! おいしー!」と目を細める。
「おい、凛。お前…」
「いーいの! これくらいなら消費できるもん! アオくんが頑張ってるの見たら、私も明日の練習、もっと頑張れるから、そのご褒美!」
訳の分からない理屈だが、彼女が嬉しそうなら、まあいいか、と思ってしまう。俺は本当に、彼女に甘い。
「今日の練習も、きつかった?」
ようやく彼女の声に、労いの響きが戻る。同じトップアスリートとして、互いの過酷さを理解しているからこその、優しい声。
「まあな。大会前の追い込み時期だし。タイムは悪くないが、まだ詰めるべき課題は山積みだ。……凛こそ、ジャンプの調子はどうなんだ? 新しいコンビネーション、入れてるんだろ?」
「うん、トリプルアクセルからの三連続。昨日、コーチに『だいぶ軸が安定してきた』って褒められちゃった!」
「……そうか。なら良かったな」
俺がそう言うと、彼女は「えへへ」と嬉しそうに笑い、再び俺の肩に頭を乗せた。
「でも、ちょっとでも体重が増えると、すぐに軸がぶれちゃうから、そこが難しいところ。アオくんはいいよね、たくさん食べても全部筋肉になるんでしょ?」
「羨ましい、か……。まあ、確かにそう見えるかもしれんが、これはこれで地獄だぞ」
俺は、どんぶりに残っていた最後の一口を掻き込み、追加で頼んでおいた鶏の唐揚げの皿に手を伸ばした。
「それにしても、本当にすごい量だよね。一日、だいたいどれくらい食べてるの?」
凛が、俺の肩に頬をすり寄せながら尋ねてくる。その仕草に、また心臓が跳ねる。
「んー……計算したわけじゃないが、大体、6000キロカロリーくらいか?」
「ろくせん!? わーお、やっぱりすごい! 私の、一日分の、えーっと、四倍以上かな? 想像つかないや」
「これでも、まだ足りないくらいだ。食べないと、筋肉どころか、骨まで痩せていくんじゃないかってくらい、身体がエネルギーを欲しがるんだ」
俺は、熱々の唐揚げを一つ、口に放り込む。
「だから、食事は一日八回くらいに分けてる。朝練の前、朝食、午前練の後、昼食、午後練の前、午後練の後、夕食、そして寝る前の夜食。正直、食べるのもトレーニングの一環だ。競泳で世界のトップを目指そうと思ったら、まず、この量を消化できるだけの、強い内臓を持ってるかどうかが最初の才能の足切りになる」
「内臓の才能……。そっか、そういうのもあるんだね」
凛が、少しだけ神妙な顔つきで呟いた。
「私たちフィギュアとは、本当に真逆だね……。私たちは、ちょっと筋肉がつきやすい体質だったり、女の子だったら胸やお尻に少しお肉がついただけでも、致命的になることがある。ジャンプの軸がぶれたり、回転不足になったり……。体重管理も、体型維持も、本当にミリ単位の戦いだよ。食べたいものも、いつも我慢ばっかりだし……」
彼女の声には、諦めと、それでもなお競技に向き合う覚悟のようなものが滲んでいた。俺は、空いている方の手で、そっと彼女の頭を撫でた。
「……よく頑張ってるな、お前は」
「……アオくんに褒められると、嬉しい」
彼女は、猫のように目を細め、俺の手のひらに頭を擦り付けてくる。……だめだ、可愛すぎる。
「でも、アオくんたちが『才能』って言うのも、私たちから見たら同じくらい残酷に聞こえる時もあるよ」
凛が、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「この前、言ってたじゃない。『競泳は足でスタートして、手でゴールする競技だから、身長とリーチの長さが、ある程度、そのままアドバンテージになる』って。あれ聞いた時、やっぱり日本人というか、アジア人には厳しいのかなって、ちょっとだけ、悲しくなったもん」
確かに、俺はそう言った。水泳において、体格的なアドバンテージは無視できない。特に、手足の長さは、水を掻き、水を蹴る効率に直結する。
「まあな。身長もそうだし、あとは…足のサイズとかも、意外と無視できない要素だったりする」
「足のサイズ?」
凛が、不思議そうに首を傾げた。
「ああ。足が大きい方が、水を捉える面積が広くなるから、キックの推進力も大きくなる。ちなみに俺、足のサイズ、28センチ」
「わ、大きい! リンなんて、スケート靴は特注だけど、普段の靴は23.5だよ? アオくんの足、フィンみたいだね!」
「そう思うだろ? でも、世界にはもっと上がいる。俺らが生まれる少し前に活躍してた、オーストラリアのイアン・ソープって選手、知ってるか?」
「うん、名前だけなら…。『水の怪物』とか、そんな風に呼ばれてたよね?」
「ああ。彼の足のサイズ、いくつだったと思う?」
「えー…? わかんないけど、30センチとか?」
「甘いな。…35センチあったらしい」
「さ、さんじゅうごぉ!?うそぉ! それって、もう足じゃなくて、本物のフィンじゃん!」
凛が、信じられない、といった表情で目を丸くする。その無邪気な反応が、また可愛い。
「俺が練習で使ってるフィンが、ちょうどそれくらいのサイズだ。正直、あの足で泳いでみたいと、思わないでもない。あれを常時履いてるようなもんだからな。努力じゃ、どうにもならない壁だよ」
「……そうだね。努力だけじゃ、どうしても超えられない壁があるのは、どの競技も一緒か……。なんだか、しんどいね」
凛が、ぽつりと呟いた。その声には、共感と、そしてわずかな諦念が混じっていた。才能という、抗いがたい現実。それは、トップを目指す者なら誰もが一度は突き当たる壁だ。
少しだけ、食堂の空気が重くなった気がした。俺は、最後の唐揚げを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
その沈黙を破ったのは、凛の方だった。彼女は、俺の肩から顔を上げると、にこりと、先ほどまでの少し翳った表情を消し去り、太陽のような笑顔を俺に向けた。
「でもね、アオくんは本当にすごいと思うよ! その体格で、ちゃんと世界のトップなんだもん! 日本記録も持ってるし、二年後のオリンピックだって、金メダル最有力候補って言われてる! フィジカルだけじゃない、アオくん自身の技術と、努力と、精神力で、全部カバーしてるってことでしょ? それって、本当にすごいことだよ! 私、アオくんのこと、世界で一番尊敬してるんだから!」
ストレートな、何のてらいもない、熱のこもった賞賛の言葉。それが、疲れた俺の心に、じんわりと、そして力強く染み渡っていく。
俺は、少し照れくさくて、彼女から視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
「……まあな。出てる大会全部一位のお前にだけは、負けられないからな」
「えへへ。アオくんが次のオリンピックで金メダル取るなら、私も四年後は絶対金メダル取るもん! そしたら、史上最強のアスリートカップルだね!」
彼女は、悪戯っぽく笑いながら、また俺の肩に寄りかかってきた。その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねる。カップル、か……。付き合い出した覚えは一切ないんだけどな。
「……お前が頑張ってるって思うと、俺も、もっと頑張れる気がする」
さっき彼女が言ってくれた言葉を、そのまま返す。言葉にした途端、少しだけ気恥ずかしくなる。だが、嘘ではない。
彼女の存在は、間違いなく、俺の大きな支えになっている。彼女が、同じ空の下、違う場所で、同じように過酷なトレーニングに耐えている。そう思うだけで、力が湧いてくるのだ。
視線が、絡み合う。言葉は、もう必要なかった。互いの存在が、互いを励まし、高め合っている。それを、再確認するような、甘く、穏やかな時間が流れる。周りの視線なんて、もう気にならない。この瞬間、食堂には、俺と凛、二人だけの温かい世界が広がっていた。
「……そろそろ、食い終わる」
俺は、空になったどんぶりと皿を見つめながら、名残惜しさを振り払うように言った。
「うん。私も、そろそろ部屋に戻って、しっかりクールダウンしないと。明日の朝練に響いちゃう」
彼女も、名残惜しそうに、しかしゆっくりと俺から身体を離した。その温もりが消えるのが、少しだけ寂しい。
俺が食器を重ね、トレーに乗せて立ち上がると、凛も静かに席を立った。返却口まで、短い距離を並んで歩く。
彼女の小さな手が、俺のジャージの袖を、きゅっと掴んでいる。その、子供のような仕草に、また胸が締め付けられる。
「じゃあ、また明日、教室で」
食堂の出口で、俺は彼女に言った。彼女の、掴んでいた袖を離す小さな手に、ほんの少しだけ力を込めて握り返す。
「うん。……アオくんも、ちゃんと休むんだよ? 夜更かししないで、早く寝ること! いい?」
彼女が、母親のような、いや、奥さんのような口調で、俺を気遣ってくれる。その優しさが、たまらなく心地よい。
「ああ。わかってる。お前もな。怪我には気をつけろよ」
「はーい! おやすみ、アオくん」
「おやすみ、リン」
名残惜しさを振り切るように、彼女はぱっと手を離し、女子寮の方へと駆け足で向かっていった。その小さな背中を見送りながら、俺は、胸の中に広がる温かい感情を噛みしめていた。
ひんやりとした夜風が、火照った身体に心地よい。一人になった帰り道。けれど、心は不思議と満たされていた。彼女と交わした、他愛のない会話。触れ合った手の温もり。その一つ一つが、明日へのエネルギーになる。
才能、体格、努力、精神力。トップアスリートとして生きる上で、向き合わなければならない現実は厳しい。けれど、俺にはリンがいる。リンには俺がいる。互いの存在を支えに、俺たちは、それぞれの夢に向かって、また明日、一歩を踏み出すのだ。
食堂から漏れる明かりを背に、俺は、明日の朝練への決意を新たに、そして、隣にいた彼女の温もりを胸に、寮への道を急いだ。部屋に戻ったら、寝る前に、彼女に「おやすみ」のLINEを送ろう。きっと、彼女も同じことを考えているはずだから。
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こういう物語の主人公視点の長編が読みたいです。
長編のラブコメもやってます。是非ご一読ください。
https://kakuyomu.jp/works/16818622172028042874
⭐︎や♡などいただけましたら非常に嬉しいです。
アスリートたちのイチャ甘夕食風景 タツキ屋 @tatsukiya
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