杏奈のはじまり

 杏奈あんなは中野駅構内の大きな柱に、そっと背中を預けた。腕や首の引っ掻き傷が、服に擦れないよう気を配りながら。

 出かけに母とつかみ合いの喧嘩になり、派手な爪でやられたのだ。めずらしいことではなかった。

 あと何年我慢すればいいのだろう。


 ――はやく大人になりたい。


 そうして母との関係を絶ちたい。いくら血が繋がってようが合わないものは合わないのだ。


 金曜日の夕方で、そろそろ帰宅ラッシュがはじまる。杏奈は気の弱そうな人――できれば子どもか高齢者で――を探した。通行人を品定めする眼つきは、十二歳にしては冷めている。


 目についたのは、運賃案内を見上げている小柄な少年だった。


 半端な位置に立っているせいで、並んでいるのかそうでないのか紛らわしい。そのことに本人は気づいていないようだ。いざ券売機で切符を買うときにも妙に時間がかかっている。

 春休みに遊びに来ている田舎の子だろう、と杏奈は当たりをつけた。前髪が目元にかかり、内気そうな雰囲気もある。騒ぐタイプではなさそうだ。――ちょうどいい。


 杏奈は寄りかかっていた柱から身体を離し、少年に近づいた。たどたどしく改札に並ぶその前にするりと割り込む。切符なんてなくても、自動改札は抜けられる。

 ちょっとした遊びだ。あやうい橋を渡るような。


 背後で「あ……」と、少年が声をあげたが、杏奈は振り返らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る