構内を見回すと、妙に子どもの姿が目につく。春休みのせいなのか、蒼が勝手に意識しているからか。家族に連れられた子も、友だちと一緒の子も、ひとりの子もいる。

 彼らに紛れるように蒼も切符を買い、改札の列に並んだ。


 ふいに蒼の前に、紺色のリュックを背負った少女がするりと割り込んできた。切符も入れず、前の人とぎりぎりまで距離を詰め、自動改札を抜けていく。

「あ……」思わずあげた蒼の声に、少女は振り返らなかった。

 不正乗車だ。

 そう思ったが、蒼はもっと別のことに気を取られた。

 うつむいた彼女の首――ショートカットのうなじに、引っ掻いたような赤い傷があったのだ。

 まるで鏡を見ているようだった。

 爪を。

 もし、さっき爪を立てていたなら、自分のうなじにもあんな痕がついただろう。

 少女が顔をあげると、傷は髪に隠れて見えなくなった。


 後ろから人波に押され、蒼は慌てて切符を改札機に入れた。手元に視線を落としたわずかなあいだに、少女の姿はもう見えなくなっていた。

 人の流れに逆らえず、蒼はそのままホームへの階段をのぼった。


 改札階では見えなかった空が視界に広がった。

 夕焼けだった。

 空の大半は群青色で、下のほうだけがぼんやりと橙色に染まっている。夕日は見えない。もう沈んだのか。それともビル群の向こうに隠れているのか。


 蒼の前に並ぶスーツ姿の二人組が、はしゃいでいる子どもたちの集団を見ながら言った。


「春休みとかいいよなあ」

「俺も学生戻りたいわ」


 じゃあ代わってよ、と蒼は思う。

 社会人になって、だれにも頼らず暮らせるのなら、親が何度結婚しようが、兄弟がなにかやらかそうが、自分は安全な場所にいられるのに。


 ――はやく大人になりたい。


 大学を出て就職するなら、順調に行ってもあと十年はかかる。

 足元の空洞は、そのあいだおとなしくしてくれるだろうか。自分の足で立てるようになるまで、均した表面は保つだろうか。


 蒼が列の最後尾だった。来た電車に乗り込むと、背中を掠めるようにドアが閉まった。身体を反転させて窓にちいさな手のひらをつく。

 発車のメロディとともに電車が動きだし、加速した。家路や繁華街に向かう人々を乗せて、暗くなりつつある空の下を走り抜けていく。


 街に、ひとつ、またひとつと明かりが灯りはじめた。

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