2
人混みに紛れるのは得意だ。流れに逆らわず、まっすぐ顔をあげて歩けばいい。
ホームへの階段をのぼりきると、ちょうど上り電車が停まっていた。階段付近は避け、いくつか前の車両に乗り込む。あの気の弱そうな少年が追いかけてくるとは思えなかったが、用心するに越したことはない。
そもそも向こうはこちらの後ろ姿しか見ていないだろうし――、印象に残るとすれば、このリュックくらいか。
念のために杏奈はリュックを前に抱え、両腕で隠すようにした。そのとき袖が引っぱられて、腕の傷がちらりと覗いた。
袖口をさっと直し、何事もなかったかのように前を向く。傷は忘れているとなんともないのに、意識すると急に痛むのはなぜだろう。人間の身体って不思議だ。
幼いころから母の暴力を受ける度に、杏奈はそんなことを考えてきた。
母とはずっと折り合いが悪い。
毎月、後半になるほどひどくなる。彼女は金の管理ができない。今日も出かけに猫撫で声でせがんできた。
「今月サ、ちょっとネ、厳しくって……、杏奈ちゃんのおこづかい、貸してほしいなァ」
杏奈が「働けば?」と返すと、母は逆上した。彼女は理性の管理もできない。杏奈の髪を掴んだ際に、勢いあまってうなじを引っ掻き、さらに振り払おうとした杏奈の腕にも爪を立てた。
母は月初めに振り込まれる養育費を、すぐに使い込んでしまう。
それを知った父は、杏奈に直接こづかいをくれるようになった。それすら狙ってくる母とは、しょっちゅう喧嘩になる。
杏奈の身体には常にどこかしら傷があった。
「どうしたの?」と訊かれるのが煩わしくて、なるべく周囲には隠してきた。正直に言うと引かれるだろうし、嘘をつくのも面倒だ。
なによりこれから会いにいく父に、心配をかけたくなかった。やさしい父には笑っていてほしい。
発車の音楽とともに電車のドアが閉まり、ゆっくりと動きだした。窓の外では、群青色の空とビルの境が、金色に光っている。
夕焼けだ。
流れていく景色に、窓ガラスに映る自分の顔がぼんやりと重なる。子どもらしくない疲れた表情をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます