第22話:「美アルモニア」

 光の中を歩いていた。

 それは白ではなかった。

 金でも、銀でもない。

 無数の色が、互いに干渉し合い、溶け合い、

 それぞれの違いを消すことなく——共に輝いていた。

 これが、ティファレトの光か。

 私は、圧倒されていた。

 視界が満たされ、音が溶け、時間が膨らむ。

 そしてそのすべてが、痛いほどに美しかった。

 それは、どこか懐かしかった。

 思い出せないのに、知っている。

 見たことないのに、愛おしい。

 私は、胸を締めつけられていた。

 目の前に、玉座があった。

 そこには、誰も座っていなかった。

 だが、その空席が語っていた。

「ここには、“自己を超えた者”だけが座る」

 私は、無意識に一歩下がった。

“自分”という枠を捨てなければならない。

“誰かのために、自分を差し出せる者”だけが、この光に触れられる。

 それがティファレトの意味——調和の中核、自己犠牲の座。

 だが、私は自問していた。

「私は、本当に誰かのために、自分を捧げられるのか?」

 私はまだ、自分を探していた。

 まだ答えも持たず、問いを抱えたまま、

 そんな未完成の自分に、誰かを救う力などあるのか。

 そのとき、空から声が降りた。

 それは、過去の私の声だった。

 あの日、誰かに差し伸べられた手を拒んだとき。

 あの瞬間に呑み込んだ言葉たち。

 ——「ごめんね」

 ——「助けて」

 ——「どうして、私じゃだめなの?」

 その声が、玉座の空間に反響した。

 私の影が現れた。

 それは、拒絶され続けた自分の歴史だった。

 見てくれなかった親。

 比べられた友人。

 褒められた兄弟。

 無視された想い。

 叶わなかった恋。

 理解されなかった言葉。

 届かなかった叫び。

 それらが、影のかたちをとって、私の目の前に立っていた。

「自分を差し出す前に、癒されねばならない痛みがある」

 私は膝をついた。

 この場所は、癒しの場ではなかった。

 ここは、その傷さえも“全体の美”として受け容れる場所。

 光が降りた。

 私の影に当たった。

 すると、影は完全に消えず、金と青の模様へと変わっていった。

 影が、“模様”になった。

 それは、私の人生の傷が、一つの“意匠”へと昇華された瞬間だった。

 私は涙を流した。

「こんな私でも、存在してよかったんだな……」

 誰かに必要とされる前に、

“私が私を赦す”こと。

 それがこの玉座に届く唯一の鍵だった。

 光が集まる。

 玉座の背後に、一人の存在が立った。

 それは、まるで“太陽そのもの”だった。

 名前はなかった。

 性別も、年齢も、顔も持たなかった。

 だがその者は、確かに私の中心にいた。

 その存在が言った。

「おまえが犠牲にするべきものは、自分自身ではない。

 おまえが手放すべきは、“孤立した自我”だ」

 その言葉に、私は胸を撃たれた。

 犠牲とは、捨てることではない。

 自分を消すことでもない。

 全体に溶け込みながらも、自分であり続けること。

 それがティファレトの教え。

 私は、玉座に近づいた。

 背後に気配があった。

 これまで出会ったセフィラたちの面影。

 ステンマ。ソフィア。スィネシス。エレオス。ディナミス——

 それぞれが、私の中で息づいていた。

 私は、それを“自分の旅の軌跡”として受け入れた。

「私は私であって、私だけではない」

 私は玉座に手をかけた。

 そのとき、金の光が脈打った。

(※後半に続きます——ティファレトにおいてアインは、自我を“分かち合うもの”として再定義し、「個の完成」から「全体の器」へと変容を遂げていきます。自己犠牲の本質は“消滅”ではなく“受容”であるという深い真理と向き合います)

 まもなく続きをお届けします。


 金の光が、私の掌から広がっていく。

 それは痛みではなかった。

 だが、温かさとも違った。

 それは、「自分を開くこと」の感触だった。

 私は、これまで“自分を守る”ことばかり考えていた。

 名前を持ちたい。

 意味がほしい。

 居場所がほしい。

 誰かに認めてほしい。

 失いたくない。

 そのすべてが、私という輪郭を縁取るためのものだった。

 だが、今。

 私は初めて、“私を誰かに明け渡す”という選択をしていた。

 光が全身を通過する。

 過去の記憶が、音もなく溢れ出す。

 失敗。

 後悔。

 怒り。

 悔しさ。

 憧れ。

 嫉妬。

 そして、いくつもの孤独。

 それらは、私が握りしめていた“自分”だった。

 だが、私は今それを、そっと差し出す。

 誰かに明け渡すわけではない。

 ただ、光の中に置いていく。

「これは、私だった」

 そう言えることが、赦しだった。

 私は玉座に手をかけた。

 そして、座った。

 何かが変わるわけではなかった。

 景色が反転したり、音楽が鳴り響くこともない。

 ただ、すべての音が“静かになった”。

 中心に座ったということは、

 外の騒音を“理解したうえで、耳を澄ます”ことだった。

 私は、周囲のセフィラたちの気配を感じていた。

 ステンマの眩しさ。

 ソフィアの知恵の鋭さ。

 スィネシスの静かな懐。

 エレオスの広がり。

 ディナミスの峻厳さ。

 そして、ケセドとゲブラーのあいだにあった蛇の命。

 隠者の灯り。

 孤独な問い。

 それらすべてが、ここに集約されていた。

 私は、自分という個が、無数の出会いの“結節点”だったことを理解した。

 私ひとりでは、この場所に来ることはできなかった。

 だが、他者の力だけでも来られなかった。

 その両者が融合した“和”が、このティファレトだった。

「ここにいる限り、おまえは“誰かの中心”となるだろう」

 声が降りた。

「だが忘れるな。

 中心とは、“見返りなく与える場”だ。

 光を放っても、誰も気づかないこともある。

 調和を選んでも、孤独が続くこともある。

 それでも、おまえはここで灯し続ける覚悟があるか?」

 私は、答えた。

「……ある」

 光が、強くなった。

 その瞬間、私の胸にひとつの“印”が刻まれた。

 それは、光の輪だった。

 何かの象徴ではなく、何かの名前でもない。

 それは、受容の証。

 私は、この旅のなかで初めて、“自分の存在が全体のためにある”と納得できた。

 それは服従ではなかった。

 それは自己放棄でもなかった。

 それは、ひとつの役割としての私を認めることだった。

 太陽の殿に、音が戻る。

 空気が震える。

 遠くから、呼ばれる声がした。

 それは次のパス——ティファレトからホドへと至る通路。

 しかし、その前にもう一つ。

 私は、この光の中心で、ある存在の気配を感じていた。

 それは、誰でもない。

 だが、ずっとそばにいた。

 アインと呼ばれた“私”が、今、ようやく自分に名を与える準備が整った。

 私は、口を開こうとした。

 だが、その名はまだ、口に出してはいけない気がした。

“名を持つ”とは、“誰かのために存在する”ということだ。

 私はまだ、その誰かに会っていない。

 だからこそ、この名はまだ——沈黙の中にとどまっている。

 私は、立ち上がった。

 ティファレトの光が、私の背を押す。

 これから先の旅は、もう“学び”ではなく、

“証し”の連続になるだろう。

 私が得た光を、どこで誰に、どう渡すのか。

 それが、次の問いだった。

 私は歩き出した。

 胸に光の輪を宿しながら、

 静かに、でも確かな足取りで、

 ティファレトの中心から、次の道へと。

 その先には、また新たな対話が待っている。

 私はもう、ひとりではなかった。

 なぜなら、私は全体の中にある“私”を知ったのだから。

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