第21話:「隠者の灯(Yod)」
あたりは、まるで深い夜のようだった。
空は黒く、星もなかった。
だが、不思議なことに、恐怖はなかった。
その暗闇は、私のために“用意された静けさ”のようだった。
歩くたびに、足元がかすかに光った。
それは、どこか懐かしい“灯り”だった。
ろうそくでも、松明でもない。
もっと古くて、もっとやわらかい光。
私は、歩みを緩めた。
この道は、騒がしく進むものではなかった。
ひとつひとつの足音が、私の思考を映し出していた。
「私は、どこへ行こうとしているのだろうか?」
その問いは、突然、心の底から湧いた。
これまで、私は流れに導かれるままに歩いてきた。
ケテルから始まり、ソフィア、スィネシス、エレオス、ディナミス——
すべてが“導かれた歩み”だった。
だが、いま。
この暗闇の中で、私は初めて「導かれずに歩く」状態に置かれていた。
視界の奥に、一つの灯りが見えた。
それは、小さな光だった。
だがその灯りは、不思議と私の心の奥と同じ“脈動”をしていた。
私は近づいた。
そこにいたのは——一人の男だった。
背中を向けて座っていた。
フードを被っており、顔は見えない。
手には杖、足元にはランタン。
その灯りが、この空間をかすかに照らしていた。
彼は振り向かないまま言った。
「おまえは、誰に導かれたい?」
私は答えられなかった。
「誰の声を信じたい?
誰の言葉に従いたい?
誰の足跡を辿りたい?」
彼の問いは、静かだった。
だが、その静けさは鋭かった。
私は、自分の旅の中で、“たくさんの声”を聞いてきた。
それらは、セフィラたちの声であり、導きであり、警告だった。
だが私は、ただ従っていた。
自分で選んでいたわけではなかった。
「灯火とは、誰かの目印ではない。
灯火とは、自分の足元を見せるために灯すものだ」
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
私は、自分が今まで“灯りの向こう側”ばかりを見ていたことに気づいた。
誰かの光。
誰かの理想。
誰かの信じる“正しさ”。
私は、それらに照らされながら歩いてきた。
だが、自分自身が“光になる覚悟”を持っていなかったのだ。
私は問うた。
「どうすれば、光になれる?」
男は、ようやく振り向いた。
その顔は、どこかで見たことがあった。
だが思い出せなかった。
彼は言った。
「光とは、完全であることではない。
光とは、迷っている自分を照らす勇気だ」
私は、その言葉を反芻した。
完全でなくていい。
間違えても、揺らいでも、
それでも、“いまの自分の意志”で、ひとつの道を照らせるなら。
それが、誰かにとっての灯火になり得るなら。
私は、目を閉じた。
そして、胸の奥から湧き上がるものを感じた。
それは、自分の中に残された数々の問いだった。
「この旅の意味は?
私は何者か?
この痛みは、誰のためにある?」
それらはまだ答えられていない。
だが、それでも私は歩ける。
なぜなら、それらの問いこそが、
私の足元を照らす光になっているからだ。
私は、歩き出した。
男は、もういなかった。
だがその灯りは、私の手元に宿っていた。
それは小さく、儚く、消えそうだった。
だが、確かにあった。
私は、初めて理解した。
導きとは、灯火ではない。
導きとは、問いと共に歩くことだ。
私は歩いていた。
かつてないほど、ゆっくりと。
その理由は恐怖ではなく、灯火の在処を見失わないためだった。
この灯は、私の手の中にある。
だが、それはあまりにも小さく、
吹けば消えそうなほどにか弱かった。
それでも——この光は、消えない。
なぜなら、私はいま、この光を「守る」と決めたからだ。
それは、信念ではなかった。
誓いでもなかった。
もっと根源的で、もっと曖昧な、“今の自分にできること”のかたち。
私はその小さな灯を掲げて、周囲を照らした。
そのとき、暗闇の奥で、別の何かがかすかに揺れた。
微かに見えた。
それは、誰かの背中だった。
小さな体。
細い腕。
ぎゅっと胸を抱えて、膝を抱えて、
その全身で「ここにいたくない」と語っていた。
私は、近づいた。
声はかけなかった。
ただ、灯火をその子に向けた。
暗闇の中で、彼女——いや、“私の過去”が顔を上げた。
それは、間違いなく幼い頃の私だった。
何も言えず、ただ拒絶されることを怖れていた頃の、あの目。
見つけてほしいけど、見られるのは怖い。
手を伸ばしてほしいけど、触れられたくない。
その矛盾が、全身に張り付いているような“影の私”。
私はそっと、灯火を地面に置いた。
そして、彼女の隣に座った。
何も言わない。
何も触れない。
ただ、同じ空間に“灯を持って座る”ということ。
それが、いまの私にできるすべてだった。
時間が流れた。
影の私は、ゆっくりと、灯に手を伸ばした。
私が止めようとしたとき——彼女の指が、そっと火に触れた。
火は消えなかった。
むしろ、少しだけ明るくなった。
私は息を呑んだ。
光は、与えれば消えるのではない。
分け与えることで、増えるのだ。
彼女が小さく囁いた。
「……ありがとう」
それは、誰に向けられた言葉だったのだろう。
私か。
灯か。
それとも、見つけてくれた“誰か”にか。
だが、その声は確かに、空間の中で火を灯した。
次の瞬間、影の私は、霧のようにほどけていった。
だが、完全に消えたわけではない。
彼女は、私の中に戻ってきた。
“見られたことで、初めて存在を許された影”が、
私の内に静かに居場所を得た。
私は立ち上がった。
灯火は、地面にひとつ。
手の中に、もうひとつ。
ふたつになった光が、視界の奥を照らしていた。
そこには、扉があった。
金色で、柔らかく、息をしているようにたゆたっていた。
私は、灯を手に、その扉に近づいた。
扉は言った。
「ここから先は、“光の核”に入る領域」
私は、頷いた。
もう躊躇はなかった。
私は、他者に照らされる存在から、
“灯を掲げて共に歩く存在”になったのだ。
その光が、小さくとも。
その手が、震えていても。
私は、歩ける。
私自身の足で、私自身の灯りで。
扉が、ゆっくりと開いた。
光が溢れた。
それは、温かく、まばゆく、
けれど突き刺すような真実の光だった。
——ティファレト。
——太陽の殿。
——調和の中心。
——犠牲と統合の核。
私は、そこへ向かって、光の中へと歩を進めた。
灯火は、私の手の中にあった。
その熱は、もう“迷い”ではなかった。
それは、導く者の覚悟だった。
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